[コメント] ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007/米)
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この世の原理とは何か?人間の欲望こそが最も偽りがなくゆるぎがない、と男は考えたのかも知れない。
男は人生をかけて「欲望」と向き合った。「欲望」に忠誠を尽くし、リスペクトした。そうした心情は、大手石油会社の重役のようなビジネスというだけのスタンスに馴染まず、本当はそんなものを放りだして得ようとしたかった家族の絆という幸せへの安住を結局はふみとどめ、信仰心の仮面にひそむ見たくもない虚栄心を見抜いてしまうのだろう。
「市場社会」と、「家族」と、「神」という原理。この物語は男の自らうちたてた欲望という原理とそれらの原理との三番勝負だ。
一の勝負。所詮は有限の責任を負うだけで命まで捧げる気のないビジネスという市場原理には「なめるな」と一蹴。二の勝負では、神を語る者から祝福の機会を奪うことで「どちらが幸せをもたらすか」を賭して信仰と対決を挑む。教会への道路を金で敷いてやるといってねじ伏せようとするが、まるで祝福を拒絶したことで呪われたかのように炎上する櫓と息子の聴覚を奪われるという返り討ちにあう(父の必死に伝えようとする声が聴こえず、それまでのあらゆる熱弁までが無為だったように思われていく息子の心象の描写が残酷的に鋭い)。あげく土地を譲ってもらうために信仰告白を強制されることになり、男の中では裏の原理というべきか、実は本音では最も崇高なものとしていた「家族」という原理に関して、男がそれを見限ったのだ、と決め付けられる。すべてはビジネスのためと思うことでかろうじて正気を保つのだが、ビジネスを鼻で笑う彼にとってそれが本心ではないことは明らかで、彼の心に致命的な傷を負わす。
一つは、後から実は捨て子だったということがわかる息子を育ててきたこと。もう一つは、その息子に反駁され家を焼かれ自分の元からいったん去らせる決意をしたのが、血を分けた弟の登場にあり、彼をすかさずパートナーに据えたこと(しかし弟というのが嘘だと分かってからの男の行動は迅速で容赦がなかった)。この二つをもって、男の「家族という血の絆」への尊厳の強さが分かるように思う。男は家族の絆があってこそ仕事の原動力になるのだと従業員たちや投資家たちに説く。それはあくまで「仕事>家族」なのだが、実のところ男が従業員たちに説く以上に「家族の絆」というものを希求していて、それが最後まで「欲望という原理」と拮抗する。仕事の支障をきたすから、いや教育と治療のためだ、という2重のオブラートを平手でうたれながらはがされていく洗礼の場面は異常な迫力で圧倒される。「パイプラインのためさ…」と本心に偽って男は汚濁を飲み込む。「家族」という原理との訣別。やがて成人した息子から三行半を突きつけられたところで、第三の勝負はもうすでに終わっていたのかも知れない。
人間はそうやって何かを飲み込むことで本心をごまかすのだが、それが致命的な一線であれば後の人格に禍根を及ぼすのだなということを確信する。そうして血は悔恨を内に潜めドス黒く滞留していくのだろう。
唐突に訪れる二の勝負のリベンジ戦、ラストでのボウリング場での対決で欲望が信仰を打ち負かす。1972年。レーンの上に滲み出す血は、再び地表に復権した石油の象徴か。むろんその石油でさえ欲望の象徴に他ならぬものであり、欲望こそが人間を先に押し進める唯一の手段なのだ、という今日の世界の原理に繋がっていく。今日の世界の大多数の人の血となり肉となっている(その出自を疑うこともなく)。
長くなってしまったが、そんなことかを言おうとしてたのかなと思った。しかし今書いたような三番勝負のようなことがもしテーマだったら、もっとそこに焦点をあてたほうが良かったと思う。最初から石油開拓史を描こうという気はさらさらなかったと思うのに、今ひとつの男の内面的なドラマに集中できていない気がする。これが実在の人物の話だったらまとまりの悪さも「そういうもんか」で済みそうだが、フィクションにしてはどうもこう余計な「事実の話」が多い。そんな風に思ったら、実は原作が長大な小説で、これはその最初の章の部分だけを映画にしたものらしい。この後また息子とかの代の話につながるというのならよくわかる気がする。
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