[コメント] イースタン・プロミス(2007/英=カナダ=米)
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私はロンドンという都市を訪れたことがない。したがって私が知っているロンドンとは「映画のロンドン」であり「現実のロンドン」ではない。そのため却って強く云えるのだが、『イースタン・プロミス』の風景は確実に「映画のロンドン」を更新しており、その魔都的魅力はヒッチコック『フレンジー』をも凌いでいる。また、これがモーテンセン×ナオミ・ワッツ、モーテンセン×ヴァンサン・カッセルのメロドラマとしても一級品だということは是非とも銘記しておかなくてはならない。モーテンセンとカッセルが抱き合うシーンの禍々しい色気!
ところで、冒頭でも述べた「格好よさ」、すなわち映画における格好よさについてもう少し話をしてみたい。まずひとつの前提として「最近の映画は作中人物が格好よくあることをおろそかにしてはいないか」と云ってみよう。むろん「最近の映画」とは具体的にいつ以降の作品であるのかを示すことができないという点で、以下の議論がいくばくかの空疎さを抱えることは免れえないのだが、ともあれ最近の映画の作中人物は「煙草」を喫むことが少なくなったのではないか。それは現実の喫煙人口の減少や健康問題を反映してのものなのかもしれないが、とにかく私は「映画からの煙草の放逐は、映画の格好よさを一割五分減少させる」と云ってみたい。物語を追っているだけであれば「情けない男」に見えてしかるべき『ロング・グッドバイ』のエリオット・グールドがどうしてあんなにも格好よかったのか。実生活では非喫煙者であるクリント・イーストウッドがなぜレオーネ作品で煙草を喫むキャラクタを演じたのか。煙草を操る所作、喫む顔、あるいは煙草の煙、それらが映画的格好よさを増幅させるからである。したがって「映画からの煙草の放逐」は「現実の反映」である以上に「映画的格好よさに対する認識の欠如」と見なさなくてはならない。逆に煙草の映画的格好よさにきわめて自覚的な(=「現実の反映」という観点から眺めれば、反時代的な)作家としては、ただちにアキ・カウリスマキとジム・ジャームッシュの名を挙げることができるだろう。そして、見事に煙草を操るモーテンセンを演出してみせた『イースタン・プロミス』のクローネンバーグもまたそこに名を連ねている。
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