[コメント] クライマーズ・ハイ(2008/日)
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新聞社の社内ドラマに見応えがありました。一人ひとりの人物造形がなかなか緻密でした。編集局の幹部連中(編集局長、編集局次長、社会部長)なんかも、威張り散らすだけで実は無能なんて描いて済ます邦画は未だに多いように思いますが、過去の実績にあぐらをかく怠慢さをうかがわせつつも、一定の対応力と瞬発力は持っている(じゃないとここまで出世できない)。いるよなこういう奴、どの組織にも、という。
それから、物語の展開につれ、全権デスク=悠木(堤真一)を軸とした新聞社内の人間力学というか組織論理みたいなものが浮かび上がってくるところ。締切時刻の変更が取材チームに伝わらなかったてなしょうもない理由で、ジャンボ機墜落の地元紙が現場雑観を落としてしまう。しかし悠木はまるでめげずに、編集会議でツボを押さえた正論を吐き、翌日は思い通りの紙面構成を獲得する。ところが今度は、自分の直情を土下座してまで訴えたのに、社長(山崎努)にあっさり袖にされる。組織人としてのこの決定的な敗北に悠木が意気消沈していると、部下(尾野真千子)が活躍。墜落の原因、「圧力隔壁」を掴んでくる。悠木は再びテキパキと動き出し、社内の各部署に万全の働きかけをするー。
まあ、編集局と販売局との軋轢みたいなありふれた要素は、日航機墜落事故をテーマに据えた本作で描かなくともよかろうと、僕なんかは思わないでもありません。しかし、描きたかったのでしょう。と言うより、横山秀夫の原作小説に忠実にしたのでしょう。そして横山秀夫はこの原作小説で、御巣鷹山墜落事故というモチーフを使って、むしろ地方新聞社の内実を克明に綿密に再現したかったのだと思います(未読ですが)。
その典型例が、1つ目のクライマックス、すなわち「スクープの見送り」です。普通の映画なら、クライマックスはどうしたって「スクープ」でしょう。「見送り」はあり得ません。なのに本作は「見送り」。報道倫理的には感心させられました。「飛ばし記事」(確固たる裏付けがないまま、臆測で書いた記事)は、結果として正しかったとしても、所詮「飛ばし」でしかないと痛感させられました。また、ドラマの構造としては、決断に至るギリギリ度合いが描き上げられているかぎり、スクープでもその見送りでも同じ構造だと言えるのかもしれません。しかし、映画としては、盛り上がらないことこの上ない。
だからこそ、2つ目のクライマックスが用意されたのだと、思ってしまう訳です。いつの間にか、あれほどいがみ合っていた編集局が一丸となって、社長と対峙する構図になっている。ここで初めて胸のすくような展開が訪れるー。そう期待するのが映画ファン心理ではないでしょうか(違うかも)。
本作は言ってみれば徹底的にリアリズムでした。そこが本作の魅力であり、事実、着地はともかく、そこに至るまでのプロセスは見応えがあったのですから、痛くて痒いところなのだと思います。
原作者もどこかでこの構造が分かっていて、山登り話なんかを付け加えたのでしょうか。少なくとも本映画作品では、山登りパートはまったく効果を発揮してないように思います。大体、クライマーズ・ハイ(=登山者が、酸素不足のために、脳が薬物使用のハイに似た多幸状態になること※)なんて、本作で描かれていましたか?
80/100(20/8/21ディスク見)
※と、僕が勝手に思ってるだけで、とんだ間違いかもしれませんが。
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