[コメント] スカイ・クロラ(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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一度観ている分、今度は原作を意識せず、奥を覗いてみる気で鑑賞してみたが、これやっぱり二回目に観た方が面白い。私の中にはどこか原作至上主義が隠れているのかもしれん。少なくとも(敢えて言えば)押井至上主義者として、原作で予習などしてはいけなかった作品だった。
それで遅まきながらようやく納得。これは押井の最高作品ではないにせよ、間違いなく良作だ。
ただ、本作にはどこか座りの悪さを感じてしまい、それが私の理解を妨げ、最高作とは言えなくしている。物語が悪いわけでは決してない。むしろようやく押井らしさというものを観ることが出来たのだが、改めて考えてみると、その座りの悪さとは一種のもどかしさであることに気づいた。
これまで押井はアニメーション作家としては宮崎と共に世界のトップクリエイターとして紹介されていて、古くからのファンとしてもそれは大いに喜ぶべきことだったのだが、一方ではそれが少々不満でもあった。
古くからのファンは、押井が映像作家として大変優れていることは認めるが、一方それはあくまで半面に過ぎないことを知っている。我々が真に楽しんでいたのは彼のあくの強い主張に他ならない。それ以前の一見不条理劇に見える作品の中にも、物語内に込められた遊び心と、強烈な主張を楽しんでいたのだ。
「こいつを世間にこれを叩きつけてやる!」あるいは「不完全だろうがなんだろうが構わねえ。これを見ろ!」とばかりにほとばしらんばかりの思いが、少なくとも『P2』以前のかつての諸作こには感じられた。
正直受け止めるこちら側も、言ってることがなんだか分からない。だけどそれを理解したい。あるいは理解したと思い込みたい。そう思わせる何かが確かに存在していたのだ。 ただ、その半面の方を強烈に楽しめたのは多分『P2』の時までだろう。この作品に関しては文句の言いようがない。映像クリエイターとしての主張と「見せてやる」という思いが絶妙にマッチングしてかつてない高水準の作品を作り上げて見せたのだ。
押井自身は『P2』を「負け犬の遠吠え」と称していたが、考えてみたら、これまでのすべての作品で押井は吠えていたのではなかったか。そして最後に言いたいことを一通り語ることで吠えることに一段落おいた。
この時点で押井の心が分からないファンは何も分かってなかった。これだけのもを作ってくれたのだから押井はまだ吠え続けてくれるだろうことと、もっとすばらしい映像を見せてくれることを両方を望んだ。まだまだ若いクリエイターなのだから、十分その可能性を考えていたし、わくわくもしていた。
しかし、それから押井の遠吠えを聞くことは以降の作品では無くなってしまう。
吠えることをやめ、次の段階に進むこととなった押井は二つの方向性どちらかを選ぶことが出来ただろう。吠えるだけ吠えたのだから、後はそこから人々に対し、理を持って話し掛ける語り部になる方向性と、後は自分にとって楽しいことをやっていこうと言う方向性。ここでシフトする際、どちらも選ぶ方向性だってあったはずなのだが、前者を選ぶには気恥ずかしさもあったのだろうか。押井は後者を選んだ。
その結果として登場した『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は、観終えた時、これまでの押井作品にあった焦燥感がなかったのでファンには首を傾げる節もあったのだが、皮肉なことにその転身は成功し、一気に世界的クリエイターとして脚光を浴びてしまった。旧来のファンはそれでもこれまでの日陰者が一気に日の光に照らされたことを知り、歓迎をもって迎えることとなる。
旧来のファンの歓迎と、一気に新来ファン層の獲得という幸運に恵まれた『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』は見た目大きな進歩に見えたのだが…
以降の作品は、ある程度の新規ファンを獲得しつつ、それでも難解さを残していくことで押井の特異性を際立たせることになるのだが、旧来のファンにとっては実ははなはだ不本意なものが続く。難解さに昔からの主張が見えず、新しい作品が出来る毎に「どうした押井」の声がこっそり囁かれる。だが表立ってはそれが言えず、むしろその点を攻撃する人に対し、過剰と呼べるまでの擁護主張をしていく。ファンとしても、形はどうあれ押井作品がコンスタントに作られていくことは喜ばしかったので、敢えて目を瞑る方を選んだ。
その中で、はなはだ評判は悪いのだが、『イノセンス』は条件付きではあるがは良い意味で昔のファンを喜ばせた。映像とかなんとかよりも、押井が再び語りだそうともがいている姿がそこには見えたのだ。新来ファンに対し、旧来ファンが久々に優位に立てた。という自尊心をくすぐる作りだったのだ。少なくとも押井は再び吠えようとしている。それを知るだけでも満足していた。
そして本作なのだが、これは特に旧来のファンにとっては、大変歓迎されるべき作品となった。古くからの作り方とはやや異なり、語りかけると言った感じではあったが、確かにここには押井の主張があったし、それこそが押井節の進化形であることを感じさせてもくれたのだ。先ほどの言葉をもう一度言わせていただければ、ここで押井はようやくここで語り部になる決心をつけたのだ。
語り部たる主張は確かに薄かったし、果たしてこれが伝わるのか?という疑問は多少残るものの、これまでにはなかった上の視点から伝えようとしていることはしっかり伝わってくる。
ここでの主人公ユーイチは、いわば二重の生活を送っている。空を飛んでいて、一瞬の緊張感で敵をほふるエースパイロットとしての自分と、一方では地上で新しく生まれた自分を際確認する作業に明け暮れる。自分は自分のことを何も知らない。それどころか自分の記憶さえも時間が経てば忘れていく。ただ自分を自分と認識できるのは数字の中と他者とのかかわりの中でしかない。その積み重ねの中、少しずつユーイチは様々人の人生を自分も受け持っていることに気づいていく。中でも何故か気に入られ、いちいち同行してくるクサナギの存在は、当初なんの意味も持たなかったが、二人でいる時間が彼にとって大きな意味を持ち始めていく。ここにいる自分はオリジナルではないこと、これまで何度も彼女と出会っていることを少しずつ思い出していく。一方、空を奪われ、オリジナルのまま徐々に壊れていくクサナギに対し彼は、「生きろ」と伝え、自分自身は彼女の代わりとなって散っていくことになる。その前に自分はクサナギによって殺されたと言うが、今度はお互いに傷つけあって殺しあうのではない。ユーイチはクサナギとの関わりの中で確かに自分を次に残そう。次につながる新しい可能性を残そうとしていく。原作とここはやや物語の結末が異なり、ユーイチはクサナギを撃つことなく、ただ「生きろ」という。多分ここに彼の思いが込められているし、迷走し続けていた押井なりの問いかけがここにはあったのだろう。そう考えると、本作の主題はまっとうすぎるくらいにまっとうだ。現状から脱却するためには、敢えてかなわぬ存在に挑んでいくことと、人との関わりの中で、命を残していくこと。
結果として実にまっとうなストレートなテーマを扱ったことになるが、ある意味まっとうすぎたことが、やや理解を削いでしまった感はあり。理解不足をそしられれば甘んじて受けるが、「終わりなき日常を生きる」これは10年ほど前に宮台真司が語っていたテーゼじゃなかったのか?宮台自身その思想を(言葉を弄し巧みにすり変えつつ)過去のものとして封印してしまっているし、今の時代にはあまりにそれはそぐわないものでは?
ここで思うのは、これがもし10年前に、それこそ『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の時に語られるべきことだったのではないか。と言うこと。何故今?10年前にできなかったことを今やろうとでも言うのか?ではこの10年、押井は一体何をやっていたのだ?という思いに包まれる。
ただし、10年の間隙をぬって作られた本作は、少なくともこれからの押井にとっての良き試金石であったのは確かだろう。まだ遅くはない。少なくともまだ何作も作れるだけの時間が残されているのだ。以降の押井の動向は、最も注目すべき事項になったのは確か。今はまずそのことを喜ぼうではないか。
…書き直す気はこれまで無かったのだけど、先日友人達から《実 に 暖 か い 言 葉 と 励 ま し》をいただいたので、書き直させていただいた。その気にさせてくれた方々には感謝します。
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