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[コメント] ジャージの二人(2008/日)

たとえば「『和小』とは正しくは何と読まれるのか」といった事柄に観客の映画的興味はいっさい向けられていないこと。その程度の「謎」で映画を支えることはできないこと。この演出家はそれらを理解していたのか。積極的に悪い映画ではないが、根本的なところで何か勘違いがあるように思える。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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設問を変えてみよう。果たして「緩い」ことは映画にとって美徳になりうるのか。私はなりえないと思う。もちろん、緩やかな時間の流れや大らかな世界観、穏やかな人間関係などを描いてすばらしい映画は多いが、そのすばらしさを生んでいる演出自体は決して「緩い」ものではなく「正確な/厳密な」ものであるはずだ。緩いことを自らアッピール・ポイントにしているかにさえ見えるこの『ジャージの二人』にしても、その最良のシーンの演出は決して緩いものではない。それは二度目のミニストップのシーンにおける水野美紀の登場の仕方のキレだ。映画はこのような驚きをもっと持たねばならない。映画における緩さとは、落差によってそのような驚きを生むものとして戦略的に採用されるべきものだ。

しかし、これをのほほんとした緩い映画としてばかり見てしまう態度は、惹句をはじめ配給会社の宣伝に毒されすぎたものでもあるだろう。この映画がごく微量ながら不穏な空気を導入しようと試みていることも見逃してはならない。もちろんそれはまず水野に対する堺雅人の屈折した感情に多く現れているのだが、田中あさみを山荘から発たせることになる「ピアノの先生の死」や、犬の鼻にできた吹き出物を指して鮎川誠が云う唐突な「癌」の一語もそうだ。いささかあからさまながら「死」の気配を導きいれることで映画を幼稚な一面性から救おうという趣向だろう。

出演者に目を向けてみよう。鮎川は映画において演技の巧拙など些細な事柄にすぎないことを実証している。その彼と演技巧者らしい堺との取り合わせの妙はやはり評価されてよいだろう。大楠道代の造型のニュアンスや田中の可愛らしさもまたこの映画の美点だ。

(評価:★3)

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