[コメント] トウキョウソナタ(2008/日=オランダ=香港)
映画を見終った人むけのレビューです。
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2003年公開の『アカルイミライ』を、抽象がまだ機能し得るかの挑戦的な確認作業だったとするなら、その答えとなるのが『トウキョウソナタ』であるだろう。先達の映画の積み重ねが、今ある東京の姿であるはずだという思いが確信には満たなくとも、そこに賭けてみるしかないというところまで、現代の映画作家は追い込まれているのだと思う。
映画的記憶の中の昭和史を、その手触りを確かめるように具象として表現すること。そこに、この物語には姿を見せることのない、香川照之や小泉今日子の親の世代の存在を感じることができる。
この仮説を推し進めるならば、香川、小泉、井之脇海の三者三様の疾走から始まる終盤の唐突な逸脱は、より若い世代の映画、ニューシネマや独立プロが牽引した70年代のそれとオーバーラップする。
であるなら、井之脇や小柳友の物語は、「現代」に追いついているだろうか。この二人の息子は、世代的な継承から断絶された地点に不意に身を置いてしまう。『サッド ヴァケイション』の宮崎あおいが、(犯罪被害者の遺族という形で)家族から切り離され、また擬似家族をも形成し得ない負の中心であるように、米軍に入隊する小柳と神童の井之脇は、突然のようにこの映画の特異点を占有する。
彼らは、香川と小泉にとっては「可能性」である。天才児を出してしまったら凡人には関係ないじゃないかなどと嘆いてはいけない。可能性をありのままに我が物として引き受けたときに、人は初めてそれを希望に変えることができるのだから。
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