[コメント] TOKYO!(2008/仏=日=韓国=独)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
「インテリア・デザイン」(監督:ミシェル・ゴンドリー)
いかにもゴンドリーらしい、数学的かつメタフィジカルな思考が見える。「互いの物理的接触を拒んでいる」ビルの隙間、そこに幽霊が潜んでいる、という話を空想するアキラ。その恋人であるヒロコは、バイトの面接にも通らず、その場しのぎの嘘を繰り返し、アキラの映画に積極的に出ようとしない事で「志がない」と言われ、アケミの狭い部屋に居候して、肩身の狭い思いをしている。そうした消極性が極まったようにして、裸身を通行人の目から隠すように逃げ回り、椅子という、自己主張ゼロの存在として他人を支える物となる事で、遂に安らぎを得る。ゴンドリーは過去、ミュージックビデオも含め、映像の平面性を逆手にとった騙し絵的でメタフィジカルな作品を幾つか手がけてきた。今回は、画としてではなく観念としての「平面」の映画。平面といえば、折り紙も出てくる。アキラは客席に煙を焚いてスクリーンの平面性の打破を試みる。それにしても、「アーティストと付き合うと大変」云々と気どった調子でヒロコに話しかけてくる女など、スノッブな人間が集まると醸し出される、妙に息苦しいような雰囲気の演出も巧い。アキラが唐突に「耐え難きをぉー、耐え」と昭和天皇の玉音放送のマネをする場面はいかにも外人目線というか、天皇がそこまで日常生活に馴染んだ存在とは思えないんだけどな。敬遠というのともまた違って。
「メルド」(監督:レオス・カラックス)
メルド(糞)が棲みかにしているらしい下水道に放置されていた、旧日本軍の遺物らしき爆弾が地上で炸裂する事や、彼が、自分の母を犯したのは日本人だと主張する事など、日本人が「臭いものには蓋」とばかりに忘却していた過去の暴力性を「くそったれ!」とばかりに爆発させるという、かなり青臭いとも思える政治性。核兵器のトラウマや第五福竜丸事件の恐怖に基づいた『ゴジラ』に対する批評性もあるのだろうか。ハリウッド版の『GODZILLA』ではフランスのせいにされていた事も思い出す。それがこの作品と関係があるのかどうかは知らないが。菊(=天皇・『菊と刀』)と紙幣(=エコノミック・アニマル)を食うメルド、というステレオタイプなアンチ日本的キャラクター性はわざと狙ってやったのかどうなのか。だがそれよりも、ニュース番組でキャスターの背後に、「雲」と書かれた横に蜘蛛の巣が描かれている事や、都会の真ん中の「糞」と書かれた看板、メルド裁判の最後にデカデカと画面に表れる「死刑!!」の文字などの「しょうもなさ」、外人が断片的な印象で再構築したいい加減でキッチュなジャポンを堂々と前面に出す事の破壊力こそ、この作品の真骨頂かも知れない。メルドの、片目で、顎ひげが曲がり、体を捻って歩きまわる、アンバランスな躍動性を発揮するキャラクター性は見事。ドゥニ・ラヴァンの身体表現力に拍手。
「シェイキング東京」(監督:ポン・ジュノ)
「引きこもり」と「地震」という東京的な要素の化学反応。引きこもり男・香川照之が長年、整然と積み重ねてきたピザの箱なりペットボトルなりトイレットペーパーの芯なり(=飲食と排泄の機械的な反復の可視化)が、地震という暴力的な介入によって崩壊する様はもっと派手に見せる事もできただろうし、崩れていく過程を演出に活かす事もできた筈。ピザ配達人・蒼井優は、ピザの箱が一つ上下逆さな事に気づく事や、体にスイッチがある事など、機械的な男を、それ以上の機械性で批評する。この同類性(?)が男の心を緩めたかに思えたとき、彼女の代わりに配達に来る竹中直人。雨に濡れた足のまま電話を借りに入って来、香川に持って来させたコップの水も、怒りに震えながら床にこぼす。クールな蒼井の侵入に続く、生々しいノイズの介入。蒼井に会う為に外に出る事を決意した香川は、それまでは室内で光の動くのを目で楽しんでいたが、家の外の強烈な現実としての光にその身を晒す事になる。視界に侵入する真っ白な光の強さと、それと対照的な、人々が引きこもる窓の中の暗さ。再びの地震によって家から転がり出てきた人々の、巣から振り出された虫のような光景も印象的。
三本とも、主人公が街中を歩きまわる場面がある。「インテリア・デザイン」では、裏通りを歩きながらの議論や空想。「メルド」では、道往く人や街そのものへの容赦ない攻撃。「シェイキング東京」の街は無人状態。それぞれの作品の、東京へのアプローチの仕方が端的に表れている。
もう一つの共通点は、主人公が全裸になる場面の存在。「インテリア・デザイン」では椅子への変身。「メルド」では、警察に捕まる場面。「シェイキング東京」では、風呂の中で香川は、「引きこもりが引きこもりに会うには…」と、外へ出る決意を固める。それぞれ物語のターニングポイントで全裸。
通して観ると、一本目では主人公は自分の存在を消す事に安らぎを覚え、二本目では、謎の怪人は逆に、不快な居場所としての東京を派手に破壊、三本目では、引きこもっていた主人公が、東京を揺らす地震によって、自身の存在を外に晒す事になる――と、何やら「正・反・合」による弁証法めいて見えてくるが、これもまた、単なる偶然なのだろう。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (4 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。