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[コメント] イントゥ・ザ・ワイルド(2007/米)

世界を許すということ。(2011.10.26)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「結局地上に存在するすべてのものは僕のために存在するのではなかった。僕がすべてのもののために存在しているだけなのだ。可愛そうな僕!」(吉本隆明「エリアンの感想の断片」、『初期ノート』所収)

 直接に関係のない文章を引っ張ってきて映画の側を押し込めるという真似はしたくないが、しかし、率直な感想として、いわばそういうことなのではないか。自分のものではない、いわば他者として存在する世界、あるいは、そのなかに生きる卑小で孤独な自分に出会う物語だ。

 妹(ジェナ・マローン)との親密なつながりを除いて周囲に距離を抱き、「社会」への違和感を募らせるクリス(エミール・ハーシュ)は、人間的社会の他者である「荒野(the wild)」のなかへ一体化しようと試みるが、結局、そこは彼のために与えられた場所ではなかった。自分のために殺したはずのシカの肉をまったく口にすることができずに、それが蝿にたかられ、オオカミやワシに食べられてしまうのを目にしながら、彼は自分の主観的な努力などまるで意に介さない大地の冷酷さを思い知らされる。

 しかし、彼の死を、アラスカの苛酷な大地との闘いに打ち負かされた、と表現すれば、クリスをそこへ誘った当初のロマンティックな発想となんら変わらないだろう。「死後二週間後に発見された」という終幕のキャプションは、クリスが命を落とした場所が、奥地とはいえ、彼同様に自然を楽しもうとする人々がそれなりに出入りする土地だったのではないか、と思わせる。だいたい、考えてみれば、誰かがバスを走らせてやって来れた場所だったのだ。大自然のなかで命を落とす、といっても、未踏の地に挑む探検隊のような覚悟で訪れたわけでも、修行者のつもりで留まっていたわけでもなく、死ななくても済むような場所でうっかり死んでしまった、これはそういう話だ。おそらくショーン・ペン監督の関心も、このあたりにあるように思われる。

 ツイていなかった、といえば、それまでだが、毒草のくだりに用意された「正しい名前で」という(やや唐突な)ひねりが関心のありかをもう少し明瞭にしている。聖書に語られるように「初めにことば(ロゴス)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」のだとすれば、ことばに欺かれた彼はまさしく神に欺かれたのではないか。もちろん、自らを「正しい名前で」呼ぼうとしなかったことへの見返りとして。名づけ(創世記において、まず神の行為であり、次いで神が見守る下で人間に許された行為)に逆らったために、名前によって復讐を受けるのだ。

 とはいえ、記憶違いでなければ、この映画が「神」について語る場面はそれほど多くない。その名が最もはっきりと口に出されるのは、孤独に暮らす老人ロン(ハル・ホルブルック)と丘の上で交す会話のなかだ。「人間関係だけから楽しみが生まれるなんて間違いだ、神はいたるところに楽しみを用意してくれている、ただ物の見方を変えればいい」と満足気に諭すクリスに対して、ロンはいったんうなづいたあと、「いろいろなことを話してくれたね」「教会が嫌いなことも知っている」と断りながら、こう言う。

「だが、言い知れない大いなるものが存在する。そう言ってよければそれが神なんだ。許せるときが来れば愛せる。愛したとき、神の光がきみを照らす」

 何を「許す」のか。何を「愛す」のか。おそらく、ここでロンはクリスが「神」について語ったことに反論しているのだ。クリスが無数の楽しみを用意してくれる存在として口にした「神」について、ロンは、それは人間には計り知れないものだ、と語る。クリスが語っているのは、世界にはたくさんの驚きがあふれている、それを楽しめ、といったごく平凡な感覚だ(それがそれまでの旅を通して抱いた実感だとしても)。ところが、ロンは、そうではない、世界には自分ひとりの主観など及ばない大きな力が働いている、しかし、それ(「神」)を許さなければいけない、と言っているのだ。

 これは再見してみないと不確かな、見終わってからの無責任な憶測にすぎないが、ひょっとするとクリスは本編中、一度も"God!"という嘆きを口にしなかったのではないだろうか。仕留めたシカの前で途方に暮れるときも、増水して渡れなくなった川を目の当たりにしたときも、毒草を口にしてしまったと知ったときも、使ったってよさそうなこの言葉を彼は口にしていなかったように思う。というのも、「神よ(なぜこんなことに)」というこの嘆きは、ロンのいうような力の存在を認める者だけが本来口にできる言葉だからだ。

 映画のラスト、クリスは息絶えるそのとき、ロンとの会話のシーンと同じ、雲間から太陽の光が差し込む空を見上げる。「僕は幸せだった。主に感謝、みんなに神のご加護を」という遺言における二度の言及が示すように、「あんまりだ」「ひどすぎる」という嘆きを通して最期の最期に、彼は「神」を許したのだろう。誰も救ってくれないそのなかで、自分のために存在するのではない大地やほかの人々、あるいは、子のために存在するわけではない親、そういう一切を愛せたのではないか(逆に、クリスの夢のなかに妹の姿がないのは、もともとの一体感ゆえ?)。

 ところで、どこの場面だったか、テレビに湾岸戦争の宣戦布告をする父ブッシュ大統領が映る。90年代初頭を舞台にしたこの映画には、ご多分にもれず、「バーガーキング」のロゴが年代と合致していない、といったいわゆるアナクロニズムがいくつか見られるそうだが、最もあからさまなアナクロニズムはむしろこの「テレビを通じて国民に呼びかけるブッシュ大統領」といえそうだ。「許す」というのは、もちろん、怒りや憤りのあるところにしか起こり得ないものだし、そうした割り切れない感情を捨てるといったことを意味はしないのだろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)きわ[*] 緑雨[*]

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