[コメント] ブロークン・イングリッシュ(2007/米=仏=日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ノラが映画館でデートするシーンでの、相手の男の元恋人との遭遇と、その後の男の、優しいながらもノラとの関係に何の可能性も与えないようなフォローだとか、ホテルの客として来た役者と簡単に寝て裏切られたせいで、新しい恋に際してキスにさえ躊躇することだとか、男運の悪さを嘆きながらも「必死になっている自分が嫌」と泣く言葉のリアリティだとか、ジュリアンとのベッド・シーンでの、二人の向こう側から光が射し込んでくる映像だとか、所々、愛せる箇所も無いわけではない。だが全体的には、三十路を過ぎた女が快楽原則的に紡ぎ出す恋の夢が、雰囲気任せで映画的エスプリを欠いたままダラダラと紡ぎ出されるままであり、結果、最後のジュリアンとの再会シーンにも、奇跡的な偶然としての驚きが全く感じられない。
“Broken English”と銘打ちながら言語的障壁が殆ど皆無な会話劇が続く鈍感さには、さすがアメリカ映画と言うしかない。英語話者の観客の目と耳にこの映画の会話シーンがどのような印象を与えているかは知る由も無いが、英語/フランス語の障壁に起因するもどかしさを、全くドラマとして活かせていないので、ニューヨークでのジュリアンも、パリに渡ってからのノラも、そのシチュエーションに置かれている必然性が極めて希薄。一箇所、ノラの「どうして子供は親に似るのかしら」にジュリアンが答えた「それが親からの最大の贈り物だよ」が、後にノラがパリの喫茶店で知り合った男たちに語る「パリの男は特別ね。母親に愛されていたから」という台詞につながることで、ジュリアンの見つからないパリという場所を、目の前の男たちを含めてジュリアン色に染める演出はあるのだが。
パリ行きに際して、何かよく分からない物を配達させられるシークェンスも、これを面白く演出してやろうという稚気をもう少し見せてくれても良さそうなものだ。全てのエピソードが「雰囲気」に流され、薄すぎる。その上、あまり好きになれる「雰囲気」ではない。ノラが、役者に裏切られたことを母に語って泣くとか、霊能力者の語る父の言葉だとか、パリの、ノラを孫と思い込んでいる老婦人だとか、バーで出会った年上の紳士の慰めだとか、何かに依存したい気持ちがそこかしこに覗いているような印象がある。ノラが仕事を勝手に放棄する行動なども、そうした子供っぽさの表れのひとつ。挙句、先述したパリの喫茶店での「パリの男は母親に愛されたから」。もう親の話はいいよ。プライドばかり高い割には、それに見合う自信が得られない女性が、全ての責任から逃れて何かに依存したがるという、有りがちなパターンに見えてしまう。
「不安症を抑える薬」というアイテムも、ノラの気まぐれへの免罪符のようで鼻につく。ホントはアートが好きで大学でもその方面の勉強をしたのに、ホテルの苦情処理やら何やらのつまらない仕事をしている私、感受性が強いせいでこんなに不安定になってしまうの。だから突然仕事にやる気を無くして怠けた末に、唐突にパリに男を追いに行ったっていいでしょう?というわけだ。そのくせ、会話シーンでは特に知性もユーモアも感じられないという下らなさ。「君が思っているほど君は大した女ではない」。誰かこの女にそう言ってやれ。登場人物たちの口は、気の利いた言葉を吐く代わりのように、やたらに煙草を吸うことに使われている。煙草が似合うのは、何も話さないことが一つのスタイルとして映じる人物の場合であり、本作のようなものの場合は、おしゃぶり代わりにしか見えない。
パリでの、ギャラリーで絵を見ていたら男から声をかけられ、喫茶店でパリジャンと会話する、というシーンが一抹の救いのように見えるのは、要はノラはその程度のこと(「アートに興味のある私」に男が興味を示すということ)で満たされるような内面しか有していないということでもある。
この嫌な雰囲気は、一見全く異なる作風のようだが、僕には河瀬直美の作品を彷彿とさせた。そういえばこの二人、雑誌で対談をしていたんだっけ。ちらっと立ち読みした程度なので、内容は殆ど憶えていないけど。
なんだかジュリー・デルピーの真似をしてソフィア・コッポラが撮り、案の定失敗したような映画。ゾーイ・カサヴェテスの為に用意すべき席は、どこにも無いだろう。
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