[コメント] ファニーゲーム U.S.A.(2007/米=仏=英=オーストリア=独=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
オセロで必勝とされる手は、打たせて、機を待ち、角を取り、一気に蹂躙することである。
なぜ「彼ら」が主導権を握ることが出来るのか。それは不用意な先手をどちらが打ったかということに起因するというのは、観る者は薄々理解しつつも、その些細と思われた切っ掛けである「卵」により取り返しのつかない結果に否応なしに誘導されることへの恐怖と、その暴力の圧倒性、反撃できない不条理への苛立ちに終始苛まれる。
「卵」により奪われた「角」は、二度と裏返すことが出来ない。理由のない暴力の力強さはもちろん、「確信」に基づく暴力がかくも強力であることを見せつける。逆襲を試みても、その攻撃は相手に届かず、むしろ次の一手で数倍の威力をもって襲いかかってくることが予見されることの怖ろしさ。交渉の余地はなく、ルールを変更することはできない。
加害者が二人組であること。常に、フレーム外であっても、被害者達を挟み撃ちにするように立ち回ること(本作のカメラワークは考え抜かれた高水準)。これらの要素も、私にオセロを想起させる。また、「彼ら」の使用する凶器は自前のものではなく、一貫して被害者の娯楽に用いられる所有物(危険物)である。猟銃、ナイフ、ゴルフクラブ。きっかけはとにかく被害者の行動に起因する。
室内(内装は基本白)シークエンスの緊張感はもちろんだが、屋外、第三者を前に助けを求めたくても出来ないときの無力感と苛立ちの演出が高水準。開かれた屋外でも密室に閉じ込められている感覚。第三者を前に、清潔感という偽装が効奏する。「助けを求めても意味が無いだろう」と、「負け」を前提に状況を把握するよう思考を追い込まれる。同時に「なぜ?」という混乱に決着をつけることができないままに。
真偽のほどの分からない「デブ」の出自をポールが嬉々として語るとき、ティム・ロスが浮かべる自嘲的な笑み。対戦者の圧倒的な強さ、自らの無力を認めたときに人はどうするか。「わらってしまう」のである。
筒井的な悪意と暴力のシミュレーションを、ひたすら冷徹な演出(巧いが実に下品)で提示する。オープニングで被害者達が聴くヘンデルが突如デスメタル(?)にシフトされるシーン。ナオミ・ワッツの「(曲を)変えないで」という台詞の挿入。ここなんかもずいぶん下品である。ここは日常が暴力に蹂躙される予感よりもセレブへの嘲笑というイメージが先行するのだが、こういったシーンも含めて、やっぱり各所が筒井的に「ファニー」な気がしなくもない。
ピーターとポールのやりとり、「巻き戻し」、突如としてスクリーンから身を乗り出して観客に語りかけるシーンなどは徹底的に怖ろしく、ぎょっとしはするものの、正攻法への期待を逆手にとって観客を翻弄するメタな加虐趣味はユーモラスですらある。
「見せきらない」ことによる観る者の加虐性の刺激(かえって痛みを共有させる手段でもある)もまた、悪意に満ちているが、どこかしきりにハネケがウィンクしてくる感覚にとらわれ、映画的な被虐的快感を覚えてしまう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
● 「デブ」の出自(ほとんど出鱈目)を語るシークエンス。『ダークナイト』におけるジョーカーが「顔の傷」にまつわる逸話を披露する際、都度その内容が変わる、ということに戦慄したことが想起される。
● ワッツが犬を発見するシークエンスで、加害者がワッツに進む方向を「寒い(右?)」「暖かい(左?)」という言葉で指示する。この脈絡のなさに翻弄される様がまた怖ろしい。理由が見えないということの怖ろしさ。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。