[コメント] ロルナの祈り(2008/仏=ベルギー=伊)
映画を見終った人むけのレビューです。
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僕は基本的に、作品に興味はあっても人間には興味がないので。鍵、携帯電話、紙幣といった物言わぬ小道具が、登場人物間の関係性を表すちょっとした働きをしている点は好ましいのだが。そこには、脚本に施された知性が感じられる。
ロルナ(アルタ・ドブロシ)がクローディ(ジェレミー・レニエ)を愛するようになったのは、劇中から感じられる範囲では、結局、ヤク中の彼がロルナに必死で縋りつく行動、つまりは、彼女を必要とする行動の他には考えられない。麻薬の化学的な作用が愛情の原因というわけだ。何とも虚しい愛とも思えるが、その虚しさこそがこの映画の肝なのかも知れない。ロルナは、金の為に頻繁に偽装結婚と離婚を繰り返し、国籍売買をしている様子で、そこに彼女の根無し草な立場が感じとれる。せっかく退院したクローディが、すぐに売人に目をつけられて、ヤクに手を出してしまいそうになる緊急事態に対し、ロルナは文字通り身を挺して彼を救う。このシーンで彼女は全裸になっているが、これに先立って、自分でわざとつけた痣を医者に見せるシーンでも、服を脱いでいた。これもまた、クローディが殺されないようにする為だ。
冒頭シークェンスで、携帯電話を手にしたロルナが、「これで三度目よ」と、かかってきた電話を即座に切る行動や、部屋に彼女が戻ると、大音量でロック・ミュージックがかかっていること、翌朝早くの仕事に備えて眠ろうとするロルナが、隣室の音楽や、彼女を呼ぶクローディの声に妨げられるなど、ロルナにとっての彼の存在の煩わしさが、専ら「音」のかたちで演出されている。クローディが殺害された後、部屋を引き払おうとするロルナが、ファビオ(ファブリツィオ・ロンジョーネ)と一緒に来た男がCDプレーヤーを勝手に自分の物にするのを咎める台詞には、彼女が最初は煩わしげにしていた「音」に、クローディに寄せる想いが託されているのが分かる。
所々でこうした小道具が、登場人物間の関係の暗喩ともなっている。ファビオがロルナに寄せる信頼は、クローディを入院させたりといったロルナの行動を「予定外の仕事」と見做した1000ユーロに表れていたし、その信頼が失われた後の、車内のシーンでは、報酬からこの1000ユーロが引かれてしまう。更には携帯電話のカードも没収される。携帯電話は、冒頭のクローディからの電話や、ロルナがソコル(アウバン・ウカイ)と一緒に店を開くつもりで借りた物件を訪れて、彼に電話しながら物件の様子を語るシーンなど、愛する者の存在を肌身離さず「携帯」していることの表徴としての小道具でもあった。それもまた、ファビオの支配権の内にあったわけだ。
他にも、クローディが外のロルナに渡す為、またロルナが売人を締め出す為に窓から投げる鍵や、死んだクローディの代わりのようにロルナが隠していた札束が、遺族によって突き返されることで、余計に彼の存在がロルナの心から清算できなくなるシーンなども、物言わぬ小道具が、確かな映画的働きを果たしている。
クローディの後にロルナが偽装結婚を計画するロシア人が、通訳を介してしか会話できない男であることも、その「結婚」の実体の無さを浮き彫りにする。結婚という、愛情の確認行為が、完全なる空虚を内に隠しているわけだ。ロルナがクローディの子を孕んだと思ったのが想像妊娠であったのもまた、形式的な結婚としての空虚の表れだが、こちらは逆に、肉体的な受精が為されていないにも関わらず悪阻のような身体的症状が表れたというところに、クローディに寄せる想いの強さが見てとれる。この悪阻が起こるのも、ソコルと新しい生活を始めようと携帯電話で長々と話していた最中なのだ。
だが、序盤の雰囲気には惹きつけられたこの作品が、観ていく内にどこか受け入れ難く感じられていってしまったのは、その擬似ドキュメンタリー風の撮影手法に、どこか安易さを感じさせられたからだ。これは「ドグマ95」とかいうモットーに則って撮られたのだろうか。音楽を排するのはいいのだが、決定的に「ショット」への意識が欠けているのは支持できない。端的な一例を挙げれば、あのラストカットの平板さはどうだ。山小屋で横になり、暖炉の火を見つめている、放心したようなロルナ。これはいかようにも撮れるだろう。アングル。構図。そんなものを意識した「演出」は嘘だと言わんばかりに、眼前にゴロッと転がっている被写体をそのまま撮っているわけだが、もとより嘘を撮っているのだから、その嘘を一個の画としてどう見せるかという更なる嘘に、意識的であってほしい。
存在しない胎児=空虚だけを後生大事に抱えるロルナの、世界からの孤絶が、あの森の中のラストシーンに希薄なのは、殆ど演出家の罪悪だ。一人で居て、存在しない子に話しかけるロルナを捉えたラストカットに、エンドロールの慎ましいピアノ曲が被さるが、むしろ逆に、本篇に音楽を適当に用いておいて、ラストシーンを長い無音の内に置いた方が、まだ的確だったのではないか。森の中を歩きながらロルナは腹の子に話しかけ続けていて、原題の「ロルナの沈黙」とはむしろ逆なのだが、現実には胎児の居ない空虚だけを唯一の話し相手とするロルナは、いつかその空虚に呑み込まれて沈黙せざるを得ないのだろう。だが、その沈黙の代わりにピアノ曲を挿入する優しさには、描こうとするテーマに見合った峻厳さがまるで欠けていると言わざるを得ない。
被写体となる人間が悩んだり葛藤したりする様を、アップにしたりロングにしたりと距離を調節しながらも、基本的に長めのカットで(つまり編集による操作も排したいわけだ)淡々と手持ちカメラで追っていく。それで映画になる筈だと言わんばかりの演出が、どうも僕には傲慢に思える。被写体の存在感だけで必要充分だと演出家は考えているのかも知れないが、僕は、人生の一断面をそのまま撮ってきました風なショットなんてものは、或る日或る時の道端の石ころの観察記録と大して価値の変わらないものだとしか思えない。
せこい犯罪的商売でヤク中の人生を玩ぶ行為に加担していた女が、ヤク中がヤク中であるが故の必死さで縋りついてきたせいで情が移ってしまった、なんていう程度の話をそれほど興味深く観ていられるものではない。そこは、最後まで惹きつける為の演出を考えてもらいたいところだ。何か、作為を排すれば画面に厳しさが生まれるというような、妙な勘違いが、この手の「ドキュメンタリー・タッチ」な映画にはよく見受けられる。観客は、撮っている人間ほどには、カメラが向けられた対象に興味があるわけではないのだ。
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