[コメント] チェンジリング(2008/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ヒロインであるクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)の職業は、電話交換手たちに指示を出す仕事。夥しい数の回線と、幾人もの交換手たち。その背後をローラースケートで移動しながら指示を出すクリスティン。女性的な優雅さと、複雑な機械装置の対照が、レトロフューチャー感溢れる画として魅力的。物語そのものもまた、複雑に入り組んだ状況を解きほぐし、妨害を排して、協力者と繋がり、唯一人の息子・ウォルターを探す物語。
ウォルターが姿を消したことに気づいたクリスティンの長い苦闘は、息子が行方不明なことに気づいた彼女が、警察に電話をかけはしたものの、会話がなかなか噛み合わない、という事態として開始される。電話を繋ぐ仕事に携わる彼女自身が、職場から警察に電話をかけ、ウォルターの手がかりが無いか訊ねる光景の残酷さ。同じく息子がさらわれた女性から「息子が見つかったんです」と連絡を受けるのも、電話からである。
「息子との再会」を撮影した一枚の写真が新聞に掲載され、その写真と現実との齟齬と格闘するという点では、『父親たちの星条旗』と表裏を成す映画でもある。クリスティンが、ウォルターを映画に連れて行く予定だったことや、アカデミー賞受賞作を的中させるシーンなど、一見すると何でもないようなエピソードも、映画、電話、新聞を、人々を結びつける媒体として一連の系列にあるものとして捉えるべきだろう。
アカデミー賞発表当日のシーンでクリスティンは、女性の同僚からの誘いも、上司からの誘いも断って、一人職場に残るが、このどちらの誘いも、アカデミー賞の発表を皆で迎えよう、というもの。それだけ皆が注目しているということだ。だからこそ、このシーンでクリスティンが、受賞作がどの作品に与えられるか、という「真実」を言い当てることは重要なのだ。つまり、皆が注目する真実を、たった一人で取り残された状況で、言い当てるということ。
この「孤立無援」という点に於いて、物語はひとつの倒錯を描き出す。法廷に立つ犯人・ゴードン(ジェイソン・バトラー・ハーナー)は、後ろの席のクリスティンの方へ顔を向けて「警察と闘うなんて勇気があるな」と告げたり、「彼女だけは俺の悪口を言ったりもしなかった」と、警察から不当な嫌疑をかけられ拘束される立場を彼女と共有しているかのような言動を示す。その一方、クリスティンの最大の協力者であるブリーグレブ牧師(ジョン・マルコヴィッチ)の、一点の曇りもない誠実さが、クリスティンの最大にして唯一の希望「ウォルターが生存している可能性」を、穏やかに、だが決然と断ち切ろうとすること。
ゴードンの、クリスティンに懇願するように言う「あの子を傷つけたりしない」「嘘を言いたくない」等々の、卑怯で憶病な態度が、真実を曖昧さで包むことで、結果的にはクリスティンに希望を与えていること。善人を善人として、悪人を悪人として徹底的に描くストレートさが、却って善悪の構図の中に倒錯を引き起こす。それが成立しているのは、イーストウッドが巧みにクリスティンの内面へと観客の意識を誘導しているからに他ならない。上述した倒錯は、飽く迄もクリスティンの内面の出来事としてのみ感じとられるものだからだ。またそのことで、母と子の、この世で唯一の、見えざる絆を描くことに成功してもいる。
ブリーグレブ牧師は完全な正義漢として描かれているが、むしろそれ故に、「遺骨の身元は確認されていない」と訴えるクリスティンを宥めようとする彼の誠実な態度は、警察の偽善や欺瞞とは全く違うかたちではありながらも、「正しさ」によって母の直観を否定する点では同じ側に立っているとも言えるのだ。母の直観が無視できないものであることは、年月を経て親許に戻ってきた少年の母が、「息子に会わせる前に警察から質問を受けることになっているの。でも私には、息子だと分かる」とクリスティンに語ったその直観が正しかったことからも推測できるのだが。
牧師は遠回しな言葉でクリスティンに、いつか天国でウォルターと再会する時がある、という精神的な話を、一つの希望として言って聞かせる。一方、クリスティンが偽の息子を拒絶したのは、物理的な痕跡に拠る。歯科医の診断や、教師の言葉、そして何よりも、連れて来られた少年の背が、家の柱に刻まれた身長より低い、ということ。この、「低い」という一点には、その差を埋める身長にウォルターが達するまで、クリスティンが彼と過ごしてきた時間の蓄積をも、同時に感じさせる。警察は、その「時の積み重ね」を否定したのだ。
クリスティンがゴードンと面会するシーンでは、真実を曖昧にはぐらかすゴードンに対して激昂したクリスティンは、彼から引き離され、面会は強制的に終了させられるのだが、その際に挿入される、一つのショット。閉じられた鉄の扉の格子越しに、大声で犯人を詰るクリスティンは、むしろ彼女の方が鉄格子に監禁されているかのように見えるのだ。このカットは、彼女が不当に入院させられていた、精神病院の扉の鉄格子を想起させる。「隔たり」の演出としては、クリスティンが最後に息子と別れるシーンも忘れ難い。窓ガラスの向こうのウォルターは、カメラが退いていくことで小さくなっていき、その姿は既に亡霊と化しているかのようだ。
ゴードンがクリスティンに訴える「ウォルターを傷つけたりしない。あの子は天使だ」は、牧師が説教壇から訴えていた「この街にはかつては天使がいた」と響き合う。ウォルターは、腐敗した社会に於ける一片の良心そのものでもあるのだろう。
ガラス越しの別れ。精神病院の、監獄の鉄格子。さらわれながらも両親の許に帰って来た少年の再会の場面を、またも「ガラス越し」に見つめて涙するクリスティン。彼女の闘いは「隔たり」と向き合うショットとして描かれていたのだ。だが、その彼女の息子は――「夜には出歩かない子なんです」と母が語っていたその息子は、ゴードンに囚われた状況から、夜の闇にまぎれて逃げ、自由を得ようとする。その際、金網の穴を抜けようとして引っかかった少年の許へ戻り、彼を助けるウォルター。
金網という「隔たり」を抜け、他者をもそこから救うウォルターの行為は、母をも救ったと言えるだろう。この話が明らかになった後、クリスティンは刑事から「勇敢な子だ。誇りに思うでしょう」と訊かれ、「ええ」と答える。「確かなものを見つけたわ」「何ですか?」「希望です」。
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