[コメント] チェンジリング(2008/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
つまるところ映画というのはきっと、芝居がどうとか話の筋がどうとか美術がどうとかそういう諸々をひっくるめて、いかにそれらの要素をフィルムに焼き付けるかという勝負であり、監督という人がスクリーンの中で光と音をどれだけコントロールできたのかが試されるメディアなわけだ。一分一秒、画面の端から端まで神経の通い切った『チェンジリング』という映画を眺める私は、完全に彼の支配下にあった。「スクリーンから目を離さないでほしい」きっと世界中のすべての映画監督が願っているであろうことを、彼は完遂した。
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力のある創作物は人を傷つける。それらは不用意な観客を容易にその世界に巻き込み、心をえぐって日常に放り出す。劇場から日常へ投げ出された瞬間、私たちはその映画の価値に気づくことになる。えぐられた場所に、何かが残っている。映画を観る前と観た後で、私たちはほんの少し、本当に少しだけ違った人間になる。いい映画とは、そういう映画だと思う。『チェンジリング』は決して面白い映画じゃない。だけど、まちがいなく、いい映画だったと思う。
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犯人が裁判で「お前の息子だけは殺していない」と叫んだとき、彼女は幸せだったか。
死刑執行の前日に刑務所に呼び出されたものの、犯人は「お前の息子を殺した」とついぞ言わなかった。そのとき彼女は、幸せだったか。犯人が目の前で首を吊られて死んだとき、彼女は不幸だったか。
「そうして彼女は生涯、息子を探し続けましたとさ」
そのフレーズを残して物語は終幕する。彼女は生涯、息子を探し続けた。探し続けて、彼女も死んだ。死ぬまで見つけられなかった。逃げ伸びた少年によって彼女にもたらされた“希望”は、彼女の生涯を縛り付けた。
その生涯は賢明だったか、愚かだったか。あるいはそれは、幸せだったか、不幸だったか。羨ましいか、不憫か。彼女は強いか、弱いか。そんな審判を下せる人間は誰ひとりいない。イーストウッドだって、もうそれ以降の彼女の顔を映しやしない。もうそれ以降を演出したりしない。この物語は実話だという。人の人生は悲劇でも喜劇でもないんだ。
あまり簡単に使いたくない表現ではあるのだけれど、この作品のイーストウッドの視点と手腕には、“神の領域”という言葉がよく似合った。
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