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[コメント] チェンジリング(2008/米)

シングルマザーでなおかつ電信電話という先端企業の女性主任であるアンジェリーナ・ジョリーは、その先進性ゆえに事件の矢面に立たされているかのように見える(雑談を追記しました)。
shiono

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







彼女は、保護された息子をひと目見るやいなや、別人であると看破する。誰も知りえない真実にいち早く気づいた彼女は、その後に待ち受ける人生を満身創痍で切り開くキャラクターとして瞬く間に強固なポジションを占める。ジェフリー・ドノヴァン演じる警部との対立関係が苛烈になるまでの序盤は、一聴してイーストウッドとわかるサウンドトラックに彩られいささか情緒的だが、滑り出しから有無を言わさぬ力強さに溢れている。

ここからジョン・マルコヴィッチが絡む中盤の周辺描写が見事だ。マイケル・ケリーが養鶏場大量殺人事件に行き当たる過程、精神病院やLA警察署が抱える腐敗と陰謀の構図といったスリリングな展開は、いくつもの名作映画を駆け抜けたようなヴォリュームがある。そのどれもが充実したショットと名演で成り立っていて、こちらとしては言葉を失いただ息を呑んで見守るしかない。そして再びジョリーが表舞台に立ち、真相が明かされていく。

ミリオンダラー・ベイビー』や『許されざる者』の審判が、作家イーストウッドに帰するものとして提示されているのにたいし、本作は絶対的な真実がゆるぎないものとして存在している。それは歴史的事実から逆算して構築したからだけではなく、時代を予見するヒロイン像として、ジョリーのキャラクターが造形されているからに他ならない。

死刑囚ジェイソン・バトラー・ハーナーが決して口には出さなかった事実も、マルコヴィッチが諭す気休めの言葉も、取り返しのつかない徒労感を伴うものだが、終盤にきて、生存少年による証言がすべてを覆す。未来を生きる少年が語る真実の重みは大きい。

コーエン兄弟が、『ノーカントリー』で時代に追いつけないヒーロー像を描いたのとは対照的に、イーストウッドは、このヒロインの全存在にアメリカ映画の未来を賭けているようだ。老いてなお現役最前線のイーストウッドが、である(ジョリーがアカデミー賞の受賞作品を言い当てるシーンも印象的だ)。ラストに漂う仄かな希望が、根拠あるものであると信じさせてくれる、偉大な映画である。

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劇場で再度観賞した。プロデューサーであるロン・ハワードの主導で作られたこの映画は、純然たるイーストウッド印の作品とは言いがたいのかもしれない。だからこれは技巧的に上手い映画と言えるが、それにしてもその巧みさには舌を巻く。

細部を観察して気づいたことを以下に備忘録としてまとめてみる。本筋とは離れたヲタク趣味的な突っ込みなので、さらっと流す程度に受け止めてもらいたい。

赤い路面電車とフォードの車

アメリカ映画が取り扱う時代を感じ取るには、まずそこに現れる乗り物を見ることである。この映画は、移動距離の躍動としてよりも、時代背景の道具としての車があるのだが、あの赤い路面電車はそれ以上のヴィジュアル的なインパクトをこの映画にもたらしている。ジョリーに付随するものとしての、ルージュの赤と重なる色。冒頭で路面電車に乗り遅れるジョリーのショットに感動しない者はいないだろう。

ヒロインの孤立

うら若き母と幼い息子が一軒の家に住んでいる。近隣住民とは隔絶された人物像である。仕事は多忙を極め、日曜の礼拝に行くことも叶わないだろう。彼女には真に友人と呼べる人物が存在しない。イーストウッド的な、魂まで孤独の人物像である。

ポリティカル・コレクトネス

ヒロインに近づく長老派教会の牧師は、民主運動の切り口として彼女の事件に目をつける。それは崇高な行動ではあるが、彼女の心痛とは別の次元の話でもある。ただ、母としての個人的な思いから発生したヒロインの行動が、精神病院に不法に投獄された女性たちの解放に繋がったことで、彼女はその社会的な影響力に瞠目することになる。売春婦エイミー・ライアンとジョリーとのアイコンタクトの切り返しが感動的な所以である。

映像の錯覚 − ノースコット登場シーン

マイケル・ケリー(ヤバラ刑事)がノースコット牧場に赴くシーンがある。路肩では、ジェイソン・バトラー・ハーナー(ゴードン・ノースコット)がトラックを停め、オーバーヒートしたエンジンをクールダウンさせている。ケリーがハーナーに道を尋ねるくだりである。

ハーナーは、水の入った金属缶をトラックの荷台に置く。そこにはショットガンがある。ここで妙だと思った方はいないだろうか。なぜハーナーは、自分が手にしていた缶を、刑事の車の荷台に置くのか。

実はこれは錯覚である。ハーナーが缶を置いた荷台は、ハーナーのトラックのものである。もちろんショットガンも彼の持ち物だ。それに一瞬手を触れるのは、もし刑事が自分を追ってきたのであれば、この銃で始末をつける、という心理描写である。

この勘違いは自分だけかと思っていたら、imdbのボードでも議論になっていた。二台の車の停車位置とハーナーの動き、およびカメラワークが成せる空間の錯覚である。おそらく作り手も予期していなかったに違いない。

余談だが、ハーナーと別れたケリーは、ノースコット牧場の家屋に立ち入るが、そこで壁にかかったハーナーと甥の写真を目にしている。本来なら彼はここで人物同定ができていなければおかしい。先ほど道を尋ねた相手の男が、自分こそノースコット牧場の主である、と身分を明かさないことに不信感を抱いてしかるべきである。

ダブル・スタンダード

ここは脚本で最も優れた部分の一つに挙げられるだろう。何人か現れる少年たちや、仇役である警察官、医師、猟奇殺人犯も含め、この映画に愚鈍な登場人物は一人も存在しない。全員が、自らの発言に自覚的かつ意識的であり、その影響力を十分に熟知しているように見える。

その一つの例を挙げよう。ジョリーが精神病院に投獄され、そのほぼ一週間後に解放されるくだりである。殺人事件を報じる新聞記事を片手に、マルコヴィッチが病院に乗り込む。医師は自室で同じ新聞記事を読み、形勢が自分に不利と見るや否や、(マルコヴィッチに追求される前に)さっさとジョリーを退院させてしまう。この医師は自分たちが「コード12」の患者の人権を不当に剥奪しているとはっきり自覚しているのである。

言葉の持つ意味の重さ、というのはサスペンス演出としてもかなり効果的だ。ジョリーは、警察で、病院で、自衛のためには時として従順さを装わなければならない立場に追い込まれる。それを後になって追求され、反論に窮する場面は実にサディスティックである。

そして最も大きなミステリは、死刑囚ジェイソン・バトラー・ハーナーの言動だろう。法廷では「私はウォルターを殺していない、あの子は天使のようだった」とまで言い、いざ死刑執行直前になると「いまだに息子を探している母が気の毒に思え」て真実を話そうとジョリーを呼びつける。この面会シーンでのジョリーの追求と、貝になったハーナーとのやりとりは『ミスティック・リバー』のショーン・ペンとティム・ロビンスのやり取りを髣髴とさせる。真相はどこにあるのか。ハーナーは絞首台の13階段のすべてに触れてはいない、と言う。押して知るべしである。

少年たちの供述

子役の造形は本作の醍醐味の一つだろう。少年にも善玉、悪玉が登場するが、イーストウッドは彼らに何をどう語らせているか。とりわけ偽のウォルター少年を演じた子役は、その無表情な演技から、実に不気味な存在ではあるが、最終的にイーストウッドは少年たちに非は無し、と評決を下していると見た。偽ウォルター少年の退場シーンで、彼は、自分が身代わりになったのは警察の指示によってである、と口を滑らせている。

さて、問題は、主犯ハーナーの甥であるサンフォード・クラーク(エディー・アルダーソンによって演じられている)が、刑事マイケル・ケリーに告白するシーンである。かなりのディテールを伴って事件が露になっていくのだが、そのとき彼は、誘拐した少年のうち一人か二人は逃げたと思う、と供述している。

これは、エンディングで、生存少年が語る顛末のことを指しているのだが、あれだけはっきりとした逃走劇のことを、クラークがちゃんと喋っていないというのはおかしい。ここは脚本の弱いところで、ラストのドラマチックな盛り上がりとトレードオフされた部分である。

ウォルター少年の生死がはっきりしないというところが、この映画の主要なプロットとなっているのだが、それでも映画はある程度の信憑性を持って物語を紡いでいる。スクリーンを注意深く見て得られる結論は、あの晩、三人の少年が脱出に成功したということである。ハーナーは逃走する少年たちに向かってショットガンを発砲し、その音と同時に一人が躓くが、その後、画面から左へ消える二人の(無傷と思われる)少年たちの姿がはっきり映し出されている。そして、供述者本人が、その二人とは別の方向に向かって走り出し闇に消えるのである。

そして『或る夜の出来事

その生存少年の供述はおおむね次のように推移する。そのときケージに囚われていた他の少年の名前は、○○兄弟、年長は○○、あとはウォルター。ウォルターの苗字はコリンズ。なぜ彼だけ苗字を覚えていたのか、それはあの夜、金網に引っかかった自分を助けに戻ってきてくれたから。(Because what happend that night - )

ラストカット、ジョリーが歩いて退場する通りの劇場は『或る夜の出来事』(It happend one night)を上映している。

掛かっとるがな。

(評価:★5)

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