[コメント] チェンジリング(2008/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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「彩る」事を頑なに拒否する画面に、一点のみ映えるクリスティンのルージュの孤高。血を吐かんばかりに戦う女性性への共感と「システム」による人権蹂躙への怒りを、極限まで統制した画面に刃物として忍ばせる演出力は見事。何故見事かというと、監督が相当お怒りのご様子だからである。観る者、そして主体と共に怒りながら、同時に表現のために怒りを押し殺しつつ、それでもしっかり怒るというのは意外なほど難しい。達人の「抑制」と「発露」。そしてクリスティンの「勇者的在り方」は本来全く奇異でない、という奇異。その奇異のまたの名を「現実」という。
嘘が真実にねじ曲げられ、真実が嘘としてねじ曲げられる。クリスティンは一貫して「当たり前」のことしか訴えない。クリスティンの訴えを黙殺する警部が、詰め寄る彼女を「あんたは自分が嘘をついている自覚もないのか?」とねじ伏せようとするシークエンスが恐ろしい。嘘をついている自覚を失っているのはこの警部自身だからだ。この言葉は「詭弁」ですらない。それは既にこの男の中で「事実」になってしまっているからだ。
ここでどうしても私は「イラク」のことに思いを馳せてしまう。そして更にこのテーマはあらゆる「社会が創り上げた争い」に普遍的に通じている。「アメリカの誤り」の多くは、ここに起因してきたのだ。嘘が真実にねじ曲げられ、真実が嘘としてねじ曲げられる。その「真実」は捏造された「大多数」に支持され、表面的で実質の伴わない「正義」であり、いずれ信じるも疑うもなく、自明の「アイデンティティ」として社会に根付いてしまう。そして「真の真実」は「マイノリティ」となる。「アイデンティティ」を脅かす「マイノリティ」は、常に捏造された「マジョリティ」にとっては絶大な脅威であり、排除されるべき対象なのだ。そして「マイノリティ」も捏造される。「精神病院」で最も「異常(すなわち正常)」なのがクリスティンと「売春婦」である、という痛烈なアイロニー。
この実話を「イラク後」に改めて曝してくる辺りに「米国人」イーストウッドの「真の米国人」的意気を感じ、"A true story"というテロップからして大将ガチで歴史とヤリ合う気だ、と初っ端から拍手を送りたくなる。心を動かされる。イーストウッドは素朴な人なのだ。彼は「当たり前のことを当たり前に信じたい」人であり、その意味において「特別な人ではないからこそ、特別な人」たり得る。だからこそ「ごく当たり前のマイノリティ」であるクリスティン・コリンズは格好の「武器」だったろう。そして、彼のまっすぐかつ「真に正しい」素朴さと技量を持ってすれば、この映画を撮りあげることはある意味造作もないことだったろう。
恐らく彼はクリスティンが女性というマイノリティとして解釈される「現実」自体を最も憎んでいるのだ。クリスティンが市警本部長を無視して「偽の息子」に駆け寄るシークエンス。「女ですね」と鼻持ちならない市警に言わしめる際の演出の棘!大将は「マイノリティ」が捏造されるものであることをちゃんと理解しているのだ。わっ、大将怒ってる!あの「男らしい」大将が!
母性は狂気なのか。『母なる証明』という傑作を前にして興味深いテーマだが、ここで問題としているのは、その「言説」自体の正否ではなく、「ある一つの言説」を「都合の良い真実」という名の暴力装置にすり替える社会の未熟を告発することである。その叫びは単純であるからこそ真摯である。
世界よ。「当たり前」であれ。イーストウッドからすれば、事件から100年近くを経た今でも、社会はまったくため息が出るほどに、未熟である。
・・・といかにも感銘を受けたように書きましたし実際感銘を受けましたが、ケレンでくるんでくれる方が私のようなへっぴり腰の人間には有難いです。★5をつけるにはちと私には重すぎる。疲れました。
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