[コメント] スラムドッグ$ミリオネア(2008/英)
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この映画の最も大きな特徴は“Who Wants to Be a Millionaire?”なる実在のクイズ・ショウを虚構としての劇に全面的に取り込んでいる点であり、そこで直ちに思い起こされるのはパトリス・ルコント『ぼくの大切なともだち』だが、その仕方においてはルコント作のほうが巧みだろう。一見「よくできた話」だが、『スラムドッグ$ミリオネア』の作劇の難易度は決して高くない。要するに、主人公ジャマールの半生を組み立ててからそこに正答が潜んでいるようにクイズを作成することも、逆にクイズを作成してから逆算的に彼の半生に正答を散りばめることも、物語創作の技術としては同程度に容易である。もちろん、それは映画の評価と直結するものではない。
作劇の寸法が合っていない、と思う。ラヴストーリーとして弱い。ジャマールはラティカに会いたい、ラティカと結ばれたい一心で、彼女との唯一の繋がりと云える“Who Wants to Be a Millionaire?”に出場する。そこで、クイズの全問正解とそれに連動する形で果たされるジャマールとラティカの再会が「運命」であり、クイズの全問正解がいまだ誰も為しえていない史上初の事態であるならば、ジャマールとラティカのラヴストーリーも史上初・史上最大のものでなければ割に合わないのではないか。つまり、「再会」よりも「全問正解」の重みのほうが大きくなってしまうのではないか。ラティカに対するジャマールの想いの深さ・強さが、「全問正解」という史上初の事態を招き寄せるほどのものであったとはどうしても思えない。そう思わせるようなキャラクタ造型なり挿話なり、総じて云えば「演出」がない。
映画ははじめ「無学の青年がどうして全問正解まであと一問のところまで辿り着けたのか」を焦点として観客に提示する。ところが映画はあっさりと答えを明かす。それは「偶然」なのだと。もちろんそれは日本語字幕にならって「運命」と云ってもよいものだが、いずれにせよ他愛ないものだ。そして映画は次に「ジャマールとラティカは再会できるか」に焦点をスライドしてみせる。そうであるならば、この映画の結末はやはり作劇の寸法が合っていないと思う。ここでは最終問題が出された時点で「テレフォン」によって間接的に再会を果たし、その再会の仕方および内実とは無関係に正答してしまっている。クイズ・ショウとジャマールの人生が運命的に結び合わされ、賞金の獲得ではなくラティカとの再会こそが目的であるのだから、「最後の一問を誤答し、誤答したがゆえに再会を果たせた」という状況を導かなければ正しいハッピー・エンディングにはならない。「賞金を得られなかったという客観的には残念な事態であっても、再会を果たした二人にとってだけは幸福な結末なのだ」としなければ寸法が合っていない。
ここで若干繰り返しになるように述べると、私が本当に不満を覚えるのは、作劇の寸法間違いなどという瑣事についてではなく、そのような瑣事を吹き飛ばすだけのラヴストーリーとしての強さがないことだ。それはどこまでも演出家の映画勘に基づく「演出」の問題であり、また同時に「被写体=顔面」の問題である。
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