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[コメント] クローズ ZERO II(2009/日)

鳳仙のトップ鳴海(金子ノブアキ)の、不良の実力を見抜く目利きぶりが思慮深くカッコ好い。この達観した視点の存在が、源治(小栗旬)と芹沢(山田孝之)の伝説化を促すとともに鳳仙一派の凄みとなって来たるべく決戦の不気味さと期待をあおる。
ぽんしゅう

それにしても、時代や社会性を超越して描かれる彼らは、いったいどこの何者なのだろう。話しの底には、成り上がりを夢見る若手サラリーマンや部下の扱いに日々苦心する中間管理職が喜びそうな、リーダー論やマネージメント論も見え隠れするのだが、作る側ははなからそんなことにはまったく興味がないようにも見える。

この手の「喧嘩する若者」は時代によって様々な描かれ方をし、その呼称も変遷する。戦前から終戦直後は『けんかえれじい』(56)に代表される「バンカラ」や「硬派」であり、50年代から60年代は「不良」と呼ばれる。「不良」は娯楽作品では街の愚連隊として描かれアナーキーなある種の喜劇性が売り物だった。一方、「硬派」とはまったく異なり、もっぱら貧困や家庭不和といった社会の歪みが生んだ個人として告発的に扱われる「不良」の方がむしろ主流であった。

やがて70年代になると「喧嘩する若者」は「ツッパリ」と呼ばれ、80年代に入りいつしか「ヤンキー」となる。高度な消費社会が、彼らの奇異なファッションやヘアースタイルまでをも取り込み、表社会のなかで定位置を与えられ商業化されていく時期だ。作品でいうと『ガキ帝国』(81)から始まり『ビーバップ・ハイスクール』(85)あたりだろうか。商業化の最たるものでは「なめ猫」なんていうのがあった。

90年代になり「喧嘩する若者」は日本映画に登場しなくなる。96年の『岸和田少年愚連隊』は明らかに70年代的喧嘩小僧であり、私の知る限り90年代という時代を反映した同時代的「喧嘩する若者」を描いた作品に出会った記憶がない。2000年代に入りようやく学校を舞台にした『青い春』(01)と、『狂気の桜』(02)という渋谷の「チーマー」を描いた二本がやっと思い当たる。

しかし「チーマー」はその時代の「喧嘩する若者」の総称だろうか。そうは思えない。『青い春』は、荒廃した高校を舞台に度胸と腕力でその頂点を目指すという点で本作「クローズ ZERO II」と構造がにている。さらに、主人公が高校生であるという以外に、物語の場所も時代も特定できないというところも同じだ。おそらく、この「青い春」と「クローズ ZERO II」が、90年代以降の「喧嘩する若者」の同時代映画なのだろう。

二本の作品の登場人物たちを、はたして「ツッパリ」や「ヤンキー」と呼んでよいのだろうか。何かしっくりこない。2000年以降に描かれるようになった、居場所も時代も、呼称も定まらない彼らとはいったい何者なのだろう。俺はテッペンをとるためにここに来たと宣言し、男の喧嘩は素手でするものだと戦いの倫理にこだわる姿は、テッペンが番長と呼ばれ暗黙のルールが存在した「硬派」や「不良」時代の感覚に近いようにも見える。

「腕力を武器に、信頼や友情といった口に出すには面映いが、どこか憧れとロマンの匂いがする手段を使って人とつながりたい」というゲームを楽しみたいという安全地帯での代償行為。源治(小栗旬)や芹沢(山田孝之)や鳴海(金子ノブアキ)らは、所詮は時代や社会性を超越したバーチャルな世界での「喧嘩する若者」でしかなく、そこに同時代性の「何か」を求めようとすることなど、野暮でナンセンスなことなのだろう。

すると、今、この同時代にはたして本当に「喧嘩する若者」は存在するのだろうか。彼らはもはやゲーム機の画面のなかにしか存在しないのだろうか。「喧嘩する若者」は、どこへ消えてしまったのだろうか。そんなことを考えた。

(評価:★3)

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