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[コメント] グラン・トリノ(2008/米)

殺戮の歴史が育んだ幻想としての誇りは、今や亡霊のようにコワルスキー(クリント・イーストウッド)、すなわちアメリカを苦しめる。次のステージに向けて、この歴史と文化価値の飽和を脱するために、何を受け入れ、何を排除するかという選別と決意の映画である。
ぽんしゅう

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、ベトナム敗戦によって生活の基盤を失ったモン族の民たちを渋々ながら受け入れたようである。彼らの移住は少なからずコワルスキー的アメリカが原因であり、イエローではあるが彼らもまた同志に違いないことを少しは理解したのだろう。さらにコワルスキーは、朝鮮戦争の武勲で得た血塗られた勲章を、タオ(ビー・ヴァン)に授けることで負の呪いを解いて不戦の証しとして受け入れようとした。一方、グラン・トリノは勲章とは逆に、コワルスキーの職業人としての栄光の証しであり、今となっては幻想などではない唯一残された誇りだ。彼がアメリカ国民であったこと、すなわちアメリカの栄光の象徴グラン・トリノもまたタオに託された。コワルスキーが受け入れたものとは「痛み」である。積み重ねてきた永遠なる自分(=アメリカ)を固守するのではなく(厳密には言えば、もはや固守できなくなり)、変わりゆく現実のなかで他者の痛みを受け入れたのである。

排除したものは言うまでもなく(アメリカの歴史そのものである)、復讐のスパイラルと化す暴力の連鎖である。その手段として、コワルスキーは排除するべきものに自分自身の存在をも含めてことに臨む。イーストウッドは、コワルスキー的アメリカに対しても退場を宣告しているのだ。この自らへの死刑宣告が過激ではなく、どこか優しくすら見えるのはコワルスキー的アメリカの「痛み」までをも含めてイーストウッドが引き受けているからに違いない。

(評価:★4)

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