[コメント] ツィゴイネルワイゼン(1980/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
鈴木清順という人は誰が何といおうと、娯楽映画、プログラムピクチャー監督だ。日活時代のアクション場面も、それは観客のためのサービスであって、それが仮に一部の(多数か?)観客や映画製作会社の人の怒りをかったとしても、基本は見る人へサービスするための映画をつくってくれる人だ。それが、あまりに長い沈黙を『悲愁物語』という、ある意味、スポ根映画を作ったことで、映画が変わらざるをえなかった。この『悲愁物語』が、限られた人に絶賛されたのは、物語を自ら放棄したかのような、とめどもないアイデアから作られる奔放な映像の洪水だった。そして、それが絶賛されてしまったことで、鈴木清順は、観客の楽しませ方をまったく変えてしまったのだ。
それが良かったことなのか、どうかは、わたしにはわからない。
そして、ついでに、ここでは映画『ツィゴイネルワイゼンへ』の疑問を。 この映画は大正時代を描くと同時に、それが偶然なのか意図的なのかわからないが、日本が先端だったともいえる、「大正」シュルレアリスムの世界を「結果的に」描写している。ここで繰り出されるイメージの多くは、鈴木清順オリジナルな土着的なもので、出来上がっているようで、印象的な場面は、どうも過去の映画の引用が多い。太ももを持って逆さにして歩く場面。瞳を舐める場面。なにはともあれ、美しく感動的なラストの橋の向こうで少女が手招きする場面。「フェリーニのオムニバスでも同じ意味で使われたラスト」。
なんてことを書きつつも、それも意図的なことか偶然なのかわからない。引用の天才寺山修司的芸術映画の物真似パレードかよ。と、マッタクモッテいい意味で好き。わたしは、これをも、清順的ハッタリでキッチュな映画として大大好きだ。
そこには生と死すら、その意味を真摯にとりあげようとするのではない。あくまで遊びとして、生と死を羅列し、風呂敷にひろげて触らせる。そして、本当に奥まで触れたらば、清順の織り成す生と死の狭間にあるかもしれない、迷宮の世界に浸ることになる。
映画は劇場で繰り返し、繰り返し上映され。シーンは人の中で繰り返し、繰り返し、上映され続ける。そして、また映画が劇場で上映される。
映画は映画だ。
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