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[コメント] 重力ピエロ(2009/日)

「悪」と「暴力」を巡る「絆」の物語を法を超えたところで決着させるのならば、演出はもっともっと厳格であらねばならない。もはや私たちは『ミスティック・リバー』以後の世界に生きているのだから、という酷な云い方は慎むにしてもだ。云い換えれば、「いい話」の体裁を捏造する仕方に信用が置けない。
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**ネタバレ注意**
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(ガンディーの非暴力主義を曲解している節が窺える点も含めて、「暴力」と「法」に対する姿勢、あるいは作劇上の「遺伝」の位置づけ方など、思想的にかなり危ういところを抱えた映画であることは確かですが、それについての議論はここでは措きます。ただ、これは決して「復讐」の物語ではない、ということだけは云っておきましょう。岡田将生の行為は復讐の要件を満たしていない、復讐のスジを通していない、ということです。復讐ですらない「正義」の暴力を、この映画はあまりに無邪気に扱ってしまっています。演出が厳格であらねばならないというのはそのような意味においてです)

さて、これはどうにも語りすぎた映画だ。謎解きを主眼にした映画ではないのだろうから、なおさらその思いは強い。たとえば、岡田の血縁上の父親が渡部篤郎であることを示す箇所が多すぎる(「ジンジャーエール」のくだりなどに至っては作者が伏線を張ることに溺れているとしか思えない)。そんなものは「状況証拠」を一二度提示すればじゅうぶんではなかったのか。岡田が「嘘をつくときに唇に触れる」という小日向文世と同じ癖を見せるシーンもそう。どうしてその感動的なはずの一致のさまを台詞として小日向に説明させてしまうのだろう。演出家が画面と観客の視覚を信じていないからではないか。一方で、語りが「状況証拠」を提示するだけに抑制されたシーンとしてはラストシーンを挙げることができるだろう。おそらく小日向はこのとき既に故人となっている。しかし加瀬亮も岡田も決してそのことを口にしない。ただ小日向の不在それ自体および写真、そして直前のシーンで見せた憔悴の演技が「状況証拠」として、だがほとんど確実なものとして彼の死を物語っている。

ファーストシーンは悪くない。カメラとカッティングも上々で、何より岡田がバットをフル・スウィングしているというのが端的にアクションとしてよい(また、どのような理由づけや正当化を図ろうとも岡田が「暴力」に傾いた人間であることが、既にここに示されています。それは十件以上の放火を経由し、最終的に渡部の殺害にまで至るでしょう)。

加瀬が岡田の部屋のポスターを剥がして放火事件の真相を知るシーンは確かに印象的だが、衝撃という点では物足りない。それは単純に、直前のシーンでその真相が吉高由里子の口から語られてしまっているからだ(近年の作では阪本順治闇の子供たち』に同様のシーンがありますが、こちらのほうがその見せ方は巧みだったでしょう)。その吉高の扱いは半端だ。喜劇的な色付けも試みられているが、もっぱら作劇上の要請で登場させられているという印象を拭うには至っていない。

嫌悪感を与えるということにかけては立派な演技の渡部だが、そのキャラクタ造型は彼が披歴する「悪」の論理を含め底が浅い。もちろん、彼のような「絶対悪」を物語が必要としたこと、および物語にとってその「悪」が(例はなんでもよいのですが、たとえばハンニバル・レクターのような)魅力を持ってはならなかったことは理解するが、それを差し引いても疑問の残る造型だ。それは映画そのものの底さえも浅くしてしまっているように私には思える。

(評価:★3)

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