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[コメント] 私は猫ストーカー(2009/日)

猫ストーカーの映画である。「猫ストーカーの星野真里を描いた映画なんだからそんなん当たり前だろ。云わずもがなのことばっか云ってんじゃねえ馬鹿」などと怒ってはいけない。つまり、これはスタッフもキャストも実際に猫ストーカーになりきらなければ撮れない「ねこ」のカットを持った映画であると云いたいのだ私は。
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この映画に登場するねこのほとんどは実際にロケ地界隈に棲息するねこたちだそうで、その目つきの穏やかさを見れば彼らが人慣れしていることは明白だが、やはりスタッフもキャストも猫ストーカーとなって辛抱強く緩やかなコンタクトを取らなければ、このような彼らの自然な姿を撮り収めることはできないだろう(その意味で、これは正しく猫ストーカーのドキュメンタリ映画である)。日本の現役カメラマンとしては屈指の経験を誇るたむらまさきにしてもチャレンジングな撮影作業だったに違いない。

さて、まず面白いのは筋金入りの猫ストーカー星野の生態だ。私も往来を往来しているときに「ねこいないかな」ときょろきょろしたり、ねこを見つけるとついつい近づいたり追いかけたりしてしまう性質の人間なのだが、星野の猫ストーカーぶりは私の比などではない。ねこの目線に合わせるために地面に寝そべるなんてことは私にはちょっとできない。いや、ねことお近づきになるためなら是非ともやってみたいところなのだが、人の目が気になる、世間体を考慮する、こんなことをしてたら警察の人に職務質問されても致し方ないなという思いが頭をもたげる、などあってやっぱりできない。しかしこの星野はそんな凡俗の域を突き抜けた境地にいる。猫ストーカーの鑑である。

そして、この映画はそのようなねことのコミュニケーションの達人星野(相手が野良の場合「なでる」や「餌を与える」といった行為が最良のコミュニケーションであるとは限りません)を通じて、人々の(不健康とまでは云えない程度の?)対人コミュニケーション不全のさまを描く。作家はそのことについて「よい」とか「悪い」とかいった断定的な態度を取らない。猫ストーカーがねこに向けるような優しい見守りの視線で、ただ彼らの日常を撮り、繋ぐ。もちろん一概に「優しい」とは云えない、ある種の残酷さも潜んでいるかもしれないという点で実に現代映画らしいのだが、いずれにせよそうして浮かび上がってくるのが、先述したような星野の生態であるとか自称坊主の諏訪太朗の面白さである。

それにしても驚かされるのは、画面に対する鈴木卓爾の意識の高さだ。それは完全に「作家」的なものであり、そのことはスタンダードという現在の商業映画としては零コンマ数パーセントの作品しか採用していないだろうスクリーン・サイズを選択している点からも、すなわち上映開始前の劇場に足を踏み入れた瞬間に既に知れることでもあるが、ひとつだけ具体例をあげるならばチビトム(らしきねこ)が最後に姿を現したカットだ。ねこがねこらしい姿勢・所作をしている。自然に首輪が外れる。ねこが画面外に立ち去る。風がねこじゃらしを揺らす。あるいは、そのねこじゃらしの毛の輝き。思わず「完璧だ」と呟きたくなるカットの佇まいであり、時間(タイミング)演出だ。

エンド・クレジットのアニメーションも面白く、また私は少し感動さえしてしまった。猫ストーカーは屋根を伝ってまでねこ追いかける!

(評価:★4)

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