[コメント] 炎上(1958/日)
私はかつて「どもり」だった。こんな事カミングアウト出来るのはネットの中という、お気軽な空間だけの事だ。実社会の中ではそれが誰であろうと今でも絶対に禁句である。「か行とた行」の炸裂音がなかなか言えなかった。学校の音読の順番が巡ってくる日は、さぼって街を彷徨した。情けなくて、恥ずかしくて、死にたくなったこともある。
だからこの作品は辛かった。冒頭で寺の仲間から吃音を嘲笑われるシーンでビデオを止めた。中盤の仲代が雷蔵を罵倒するシーンで再度ビデオを止めた。今回、3度目のビデオレンタルでやっと最後まで見る事が出来た。
「吃音・どもり」は一般的に「障害・病気」とは思われてはいない。だから嘲笑われる。「落ち着けよ」と笑いながら言われる。そういう人々に悪意は無い。悪意が無いからそれが余計に辛い。
だが、この作品の仲代は違う。悪意をもって、それも最大限の言葉をもって罵倒する。いや、罵倒された。だからこの三島の最高傑作と評される本作は好きじゃない。辛すぎる。しかしこの三島由紀夫という男が気になってしょうがなくなるのも事実である。
原作の三島由紀夫について論評しようなどという無謀な真似はするつもりはないが、彼はコンプレックスの塊だったのは周知の事実である。徴兵検査で落とされ、戦いに逝く事も叶わなかった青年が小説家となり、この『金閣寺』で円熟の極みに達した後の行動も奇異に富む。自衛隊に体験入隊し、様々なスポーツで身体を鍛え、ボディビルによって異形の姿に変身した姿は有名であろう。
しかし、いくら筋骨隆々の姿になろうとも、私設軍隊「盾の会」の凛々しい制服姿に身を包もうとも、彼の生まれながらの身体的特徴はどうしようもなく、「チンケ」であるのは隠せなかった。(私の主観です)
この作品で吼える仲代はまさしく三島由紀夫そのものだと思う。否、俯く雷蔵も若かりし頃の三島由紀夫そのものなのだ。30歳で肉体改造と精神改造をした三島が、20歳で徴兵検査で落とされた三島自身に吼えているのだ。
この社会でコンプレックスを持つ者にはふたつの生き方がある。周囲の同情の眼に支えられながら(あるいは好奇の眼に耐えながら)生きていく方法、そしてもうひとつは周囲の者に有無を言わせぬ「力と権力」を持って封じ込める方法だ。
三島も作中の仲代も後者の道を選んだ。前者の道を歩く雷蔵(若かりし三島)は侮蔑の対象なのだ。かつての私もその対象であろう。
自身の過去を否定しなければ現在の栄光に包まれた作家三島由紀夫は自己崩壊するしかないだろう。だが、三島の凄いところは、作中で女性に「かたわ」と罵られた仲代が薄っぺらい虚勢の皮をいとも簡単に剥ぎ取られて自己崩壊する様まで描ききっていることである。
1970年11月25日午前零時、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地に突っ込み割腹し、介錯された生首が総監室に転がった。その直前、総監室のバルコニーから自衛隊員に向かってクーデター決起の檄文を叫んでいた三島に、平和日本の自衛隊員たちはお気楽な野次で応えている。
おそらく、この時三島の皮も剥ぎ取られたのかも知れない。三島は金閣寺に火を付ける代わりに自身の首を転がしただけだ。
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