[コメント] 戦場でワルツを(2008/イスラエル=独=仏=米=フィンランド=スイス=ベルギー=豪)
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私たちの恐ろしさは「慣れてしまう」ことだ。たとえどれほど凄惨な光景が眼前に広がろうと、それが続けば、おそらく私たちはいつしかそれに慣れてしまう。ドキュメンタリであることを謳ったアニメーション映画『戦場でワルツを』は、虐殺後の現場を撮影したアーカイヴ映像で幕を閉じる。その衝撃は観客を映画館の座席に縛りつけて身動きを奪うだろう。それが仮に「映像の力」と呼べるものだとして、しかしそのような力を持った映像であっても、そればかりが九〇分間続いたならば私たちはきっとそれに慣れてしまうに違いない。アリ・フォルマンは観客を過信しない。だからその真にドキュメンタルな視線の映像とは最も遠い形式で映画を進め、ラストとの落差を準備しつづける(ドキュメンタリを自称しながらも各カットおよびカット間は必ずしもドキュメンタリ風に構成されてはいません。現在時制シーンでさえそのカット構成はきわめて劇映画的です。たとえば自動車内ダイアローグの撮り方はキアロスタミ『10話』よりも遥かに普通の劇映画のようです。あるいは「切り返し」の使用そのものにしても)。そして彼は映像の力を慎ましく信じる。映画内の出来事を知識的に理解するためにじゅうぶん「親切な」説明をせずとも、ラストの映像が正しく観客に衝撃をもたらせばこの映画の目的は果たされるのだと。自分は観客がその映像の力に慣れてしまうことだけはないように配慮を尽して語ればよいのだと。
もちろんその方法論に対しての懐疑がまったくないわけではないが、しかし私はそうした方法論を真っ向から否定できるだけの覚悟を持たざるを得ないような切実な状況に置かれてもいない。映画はインタラクティヴなメディアである。観客は映画を見ると同時に見られている。その覚悟のほどを、映画から試されている。
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