[コメント] 空気人形(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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色々思うことはあるのだけど、ぺ・ドゥナのアソコがきちんと着脱式であるどころか、まさか彼女自身がホールを洗うシーンまであるだなんて、思ってもみなかった!こんな便利なダッチワイフがあればバカ売れ間違いなしだろ(全自動オナホール洗濯機!)。「型遅れ」だなんてとんでもない。自ら体を差し出し、自らのホールを取り外し、自らの手でホールを洗浄する。「これで使用後の絶望感からも解放されます☆」というキャッチコピー付きで売り出せば、間違いなく売れる。・・・多分。
それなりに良い映画だと思ったのだけど、結局煮え切らない所が多数残って仕方がなかった。それは一つには(既に書かれているけれど)出てくる人物の一人一人が細切れで、都合よく配置されているに過ぎない、というところだ。
だけど、個人的にはもうひとつ。それらのエピソード一つ一つが、妙に「あたたかい」視線に守られているような気がするところ。それは、単に映像的な問題なのか、それとも演出・脚本的な問題なのかは、判然としない。だけれど、それぞれ一つ一つに断片的に配置された「心が充たされない」空っぽの人たちの孤独な心の(丸投げな)エピソードの「不幸」は、それが不幸であるにも関わらず、妙に暖かい。それは、ぺ・ドゥナという無邪気な女の子が「心」を持ってしまった悲哀を背負いながら、どこか「かわいらしさ」をまとい続けているような、そういう「あたたかさ」と「優しさ」を持っている。
勿論、それはそれで魅力的なのだけど、あくまで寓話として撮るのであれば、もっともっと研ぎ澄まされた冷たい鋭さみたいものが前面に出てて欲しかったな、と。例えば(比較するのも変な話かもしれないけど)キム・ギドクの映画みたいな、ギラギラした鋭さがあって欲しかったな、と。そんな風に思ってしまった。(勿論、だからと言ってこの映画が「詰らない」というわけではない。これは単なる無いものねだりだし、こんなことをねだったくらいで作品の良さが損なわれるほど程度の低い映画ではないことは事実だ。)
だけど、最後の最後で腹をサバいて、相手を「燃えるゴミ」にして、自らも「燃えないゴミ」となるシーケンスは、素晴らしい。ちょっと阿倍定(『愛のコリーダ』)めいた異常さと純粋さが絶妙な仕方で混ざってて、最高に素敵なシーケンスだ。・・・だからなおさら、途中に挿入される詩や(大体、「映画」で「詩」を語るだなんて、あまりにも冒険じゃないか!)散発的に登場する脇役エピソード達が、妙に感傷を邪魔して仕方がないのだ。何か、(決して「悪い」わけじゃないのだけど)凄く勿体ない気がしてならなかった。
◇
ところで、「心」というものは、そもそも実態のないものだ。仮に人間に心があるのであれば、「人間と同じふるまいをするロボット」にも心があるはずだし、それに心がないなら、人間にもないといえる。(単に我々が「人間と同じふるまい」をしているだけかもしれないのだから。)要するに、「心」(特に「他人の心」)とは、私が“それ”に「心」を認める限りで実体化するものである。もっと突き詰めて言えば、相手が人間的にふるまっていなかったとしても、相手にある種の「心」を認めることは可能である。例えば、子どもが人形を扱ったり、人間が「自然」を擬人化してみたりするようなことも、その一例だといえる。
こういう下らない解釈は嫌いだけれど、それに従って言えば、終盤でぺ・ドゥナの空気を「抜いたり入れたり」するのは、セックスのメタファーであると同時に、「心」のメタファーであり、そしてまた「人“間”」のメタファーなのだろうか。
大都市の東京で、「心」を失った人々が多数いて、彼らは「他人」を避けて心の固い殻にこもっている。孤独に孤独に孤独に。ひたすら孤独に籠っている。「中身が空っぽ」の人間が沢山いる中で、「好きな人に空気を入れてもらう」という行為がセックスの代替として成立し、そしてまた逆に「好きな人に空気を入れてみたい」という行為でセックスの代替をしようとするのは、端的に外的な接触を超えて「他者」の中に入って行きたい、という欲求の表れだといえるかもしれない。――だが、残念なことに、人間という皮は、その内側に肉と、骨と、内蔵と大量の血液を持っている。「空気人形」のように、簡単にその中に<私>を吹き込むことは出来ない。無論、もっといえば、そこで「吹き込まれる」のは、あくまで「空気」であって<私>ではないのだが。
「心」は、意識化された時初めて芽生えるが、同時にそれは意識化された瞬間、<外部>の遠さに対する絶望感を必然的に伴う。というよりも、<外部>に対する絶望的な距離感を意識化した時に、初めて<私>という地点の居場所が明確になる。従って、「心」と「心」を通わす(と一般的には信じられている)恋愛・友情という実践は、その絶望的な距離の中で空中に浮遊せざるを得ない。――そして、残るのは、孤独。
要するに、孤独と絶望、自己の唯一性と他者と自己との等価性のようなものの反復運動の中でやっていくしかない。だけど、この作品の中では「孤独」と「満たされる孤独」があるだけで、その両者の反復がなかったような気がする。これじゃあ、何も充たされない。もしそんなことは分かったうえで作られた寓話なのだとすれば・・・やっぱり、もっとギラギラした残酷さに貫かれていて欲しかった。
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