[コメント] 空気人形(2009/日)
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空気人形ペ・ドゥナの、丸い顔、丸い目、丸い鼻、小ぶりの乳房、全てが幼さを纏って切ない。台湾人の撮影監督であるリー・ピンビンによる東京の風景に、韓国人女優であるペ・ドゥナを置いてみること。平坦な日常を、「外」の存在の眼差しで捉え直すことで、監督はこの奇抜な設定のファンタジーに、或るドキュメンタリー的なリアリティを付与しようと企図したのではないか。そうした広義の「異邦性」と表裏を成す空虚な日常。微かに村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」を連想させられもした。
空気人形は、自身の半透明の影を部屋の壁や路上に投げかけ、夜景の街の輝きを、半透明の手越しに見つめたりもする。彼女がコレクションする、半透明で中が空虚であるがゆえに美しく輝くものとしての空き瓶。「潮の香りをかぐと子供の頃を思い出す」という純一(ARATA)の台詞に、空虚な中身を充たそうとするかのように空気を吸う空気人形。サプライズの誕生日パーティで、ケーキに立てられた蝋燭の火を少女が「息」で吹き消すこと。「空には何があるの」と訊く空気人形に純一が「空気」と答え、「透明で、目には見えないけど存在するんだ」と教える台詞は、「空気」がそのまま「心」の暗喩でもあることを匂わせる。目には見えないが、世界に充満しているものとしての、空虚=心。「空気」のそよぎとしての「風」に回る風車もまた透明な素材で作られていて、空気人形の心に触れる世界の一部を成している。
聖書にも、神が人を土から形作った際、仕上げに息を吹き込んで魂を与えたという記述がある。或いは陰陽道で、人形(ひとがた)に息を吹きつけて、祓いの儀式に用いたりもする。映画の中で呼吸音が挿入されていたことからも分かるように、「空気」は呼吸という形で、命そのものでもある。呼吸という、体から空気を出したり入れたりする行為。純一がベッドの上で、空気人形から空気を抜いては吹き込むことを繰り返していたのも、空虚な自分が他者に命を与えられることを確認する行為だったのだろうか。
心を得て、目覚めたばかりの空気人形が、ぎこちない仕種でチョコチョコと歩きながら街を行く様子や、無機質さの中に心が宿り始めていることを覗わせる、まあるく開いた大きな目で世界を見つめる表情。人形らしい覚束なさが抜けていく中でも、最後まで一抹のぎこちなさは残すことで、世界との幾らかギクシャクとした関係の中を純粋に生きようとする空気人形の切なさが保たれる。一方、時折挿入されるペ・ドゥナのナレーションは、そのたどたどしい声の底に、夜の海に沈んでいくかのような暗さが纏わりついていて、愛らしさや純情さを耳で愛玩できるような声ではない。この声に、純粋さゆえに暗がりをも宿してしまう彼女の「心」を聞き取れたように思えた。
『ユリイカ』が臨時増刊号で「ペ・ドゥナ」特集を組んだときには、この雑誌は大丈夫なのかと思ったが、実際に本作を観てしまえば、特集してしまいたくなるのも納得。ペ・ドゥナは空気人形を演じるに際して、本番で涙を流せないので、本番前の準備の時間に予め泣いていたそうだ。ラストの、空想の誕生日パーティで、空気人形が蓄積してきた「心」が一気に決壊したように流す涙、空想の中であるからこそ、思う存分「人間のように」流す涙があれほど美しいのも、ペ・ドゥナの忍耐と準備の賜物でもあるのかも知れない。
『ユリイカ』には是枝裕和監督と、『リンダ リンダ リンダ』でペ・ドゥナを起用した山下敦弘監督の対談も掲載されているが、そこで語られるペ・ドゥナのプロ女優としての仕事ぶりには感心させられる。と同時に、やはり彼女と仕事をした人たちは皆、彼女のファンになってしまうという話も。この『空気人形』にしても、飽く迄も「空気人形としての」という但し書き付きではあるだろうけれど、ペ・ドゥナのアイドル映画としての魅力は隠しようがない。少なくとも七割以上はそれが本作の価値だろう。空気人形が一人で街に出かけるシークェンスにも、観客との擬似デート・シーンとしての吸引力がある。
原作の空気人形は、シンプルな線で描かれる画風を活かして、ビニールで膨らませた人形そのままの描かれ方をされており、マンガならではの仕方で現実とファンタジーの越境を行なっている。一方で実写版の本作は、ペ・ドゥナのアイドル的身体性と、東京の街並みをそのままファンタジーに取り込むことで映画としての本分を果たす。先述した「透明性」や「空気」「息」をフィーチャーしている点も、実写の特性を巧く活かしている。
一見すると、ダッチワイフなどというものをヒロインに据えている割には性的な要素が控えめにも見えるが、レンタル店の店長(岩松了)に犯されるシーンでの、虚ろな眼差しでじっとしている空気人形、「誰とでもこういうことするんだ」という店長の台詞は、ダッチワイフとしての本来の役割を果たしていることの虚しさを漂わせる。空気人形自ら、使用後のオナホールを洗う姿など、彼女本来の「役割」が「心」と完全に分離していることを感じさせる。これら一連のシーンは、「のぞみ」と呼ばれる彼女が人間であれば悲惨な光景である筈だが、むしろ人形としての本分に返ったことによる空虚感と寂寥感だけが漂う。
ダッチワイフを扱った映画としては『ラースと、その彼女』も想起されるが、そちらでは、ダッチワイフ自体は些か(映画的に)空虚な存在であり、むしろその周囲の人間関係に焦点が合わされていた。クレイグ・ギレスピーが、被写体としての人形ビアンカに殆ど興味を示さなかったのに対し、『空気人形』は、人形化したペ・ドゥナの愛らしさそのものが作品の主眼と言っていい作品。反面、彼女の周囲の、同じく空虚を抱えた人間たちの挿話は、どれも典型を並べてみせた程度の、底の浅いものでしかないのが痛い。画面からペ・ドゥナの姿が見えなくなると途端に、淡い映像美でお茶を濁したような凡庸さに落ち込みかけるが、ぺ・ドゥナがすぐに画面に復帰するお陰で全篇が何とか繋がっていく。
空気人形が空気を吹き込まれて起き上がっていくシーンで、ふと『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』で義体がブルブルと振動しながら起動するシーンを想起した。人形と魂とダッチワイフの話としては、続篇の『イノセンス』の方が近いんでしょうけど。
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