[コメント] ぼんち(1960/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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しかし、コレはついに終いまで「シロートさんと恋愛することがなかった」男の(妻は見合いで見繕って貰った相手だし)古式ゆかしい(?)自由恋愛不在時代の伝説である。 戦前の日本は、コレが「普通」だったはずである。
「恋をするならクロートさん相手」で、「男と女のラブゲーム」がお約束事の世界。 チョット気になる女の子は「誘うのが礼儀」だす。 寝たら責任持って、最後まで面倒みるのが光源氏からの伝統だす。な、世界である。 「あ、こう来たらぁ、こう打って、ランナーになったらエッサッサ♪」な世界である(←どんな世界やねん)
ソコには形式としての思いやりや約束事はあるが、ホントに「ソコに真実の愛があるのか?」「おのが全存在を賭けて、捧げそして奪い尽くすほどの愛はあるのか?ドウなのか?」は最後まで「よく判らない」ので、現代に生きるワシらから見れば、マッタク不思議な人生である。
最初は「コレって『好色一代男』なのかなあ?」と思って観ていたが、むしろコレは恋に夢中になる男の話と言うよりも、主体性のないママ余ったエネルギーのはけ口を女性に求める話であると思い至った。
主人公はむしろ、「野心アリアリな商売人」な部分も持っている。 スキさえあれば、「もう一旗揚げたろか?」とうかがうような、「はしこい男」でもあるのだ。 その男の一生を「女」という切り口から見れば、確かにこーゆー風に見えるのだろう。
しかし、ソコに描かれているモノはむしろ、「上方女性文化」(つまり、大店のごりょんさん&お家さま)からの視点なので、なんとも食い足りない部分がある。 恋に我が身を捧げるでもなく、商売の鬼になるワケでもない。 恋も仕事もソコソコで「人生はお母ちゃんたちに握られているから思い通りには行かへんし、なんかヒマだから恋でもしたろか?」くらいの気持ちが見えるだけ。 仕事にも恋にも心の底から燃えることのナカッタ男の半生は、聞いているコチラとしても「ボチボチでんなあ」くらいの感想しか抱けない。 やはり、本気汁ダラダラで一身に身を捧げるモノを何か持たなければ、魅力がナイ(タダの「ボンボン」で一生を終わる)という教訓かしら?この映画??
映画の中で主人公の母親が、夫が亡くなったときに思わず泣き崩れてしまい、「あんな養子でも死ぬと悲しいんかい?不潔ヤナ!!」と実母に吐き捨てるように罵られるシーンがあった。 昔、ダンナがワシと結婚しようと自分の母親に相談したところ、「好き合って結婚するなんて不潔ヤワ!」と怒られたという事件があったモノだ。 「好きだから一緒になる」という感覚は「動物的で不潔なモノ」という感じであったのだ、戦前の日本に於いては。 その辺の「今は失われた感覚」を再現しているという部分では実に素晴らしいモノがある(妾が本宅に挨拶に行く場面とか)
女優の魅力は当然として、その美女達を従えて(?)オロオロする雷さまも、そーきゅーと♪である。
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