[コメント] 母なる証明(2009/韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
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問題提起の仕方としてそもそも陳腐である、という批判を恐れずに、ポン・ジュノは娯楽を目指す人間か、それとも芸術を目指す人間か、という問題を挙げさせてもらうとすれば、(そして、その回答を本気で探してみるとすれば、)まず注目すべきは、この作家が非常にジャンルに対してメタ的な視点で映画を製作していることだろう。例えば、この作品に限って言えばだが、そこではメタ・サスペンス、メタ・ホラー、そしてメタ・ヒューマンドラマ、というような状況が生じている。サスペンスに徹するのではなく、そしてホラーに徹するのでもなく、さらにヒューマンドラマに徹するのでもなく、まさにその間隙を縫うようなラインをこの作品は形成しているのである。これを裏付ける例としては二つの事が挙げられる。
一つ目は、この作品が、時間の流れに沿って、自身の印象を定期的に変えていくことである。まず、最初のシーンでいきなり母親のダンスが映し出されるが、これはもはや映画であるということすらこの監督が忘れているのではないかと思わせるほど型破りな演出である(後述)。物語の立ち上がりでは、息子が逮捕されるところから、母が子を救うというありがちなヒューマンドラマのプロットをこちらに提示するが、それは母が自身で手がかりを探そうと試み始めるところから変質し、まるで“母親探偵物”とでも言ったような異様な雰囲気を帯びる。次第に母親は追及の主体を他人に委ねるようになり、ついに息子自身の証言で犯人らしき人物への接近に成功する(“サスペンス”)。さらに物語は、母親が殺人を犯すところから変質する。ここでは、包丁を何度も振り下ろす母親と、その顔に飛び散る血飛沫の演出が印象的に成されており、その演出には“ドラマ”以上の何か、たとえば“ホラー”や“スプラッタ”が感じられる。そして物語は終わりを向かえ、最後に母親が再びダンスをするところで締めくくられる。これらのジャンルの変遷は、監督が娯楽映画としてのひとつの形態に没頭せず、むしろその上に立った位置からそれらを効果的に組み合わせていることを意味する。上述した“メタ的な視点”の一つの事例である。
二つ目は、作品の随所に盛り込まれる“笑い”の要素である。これはポン・ジュノの全作品に共通し、彼の絶対的長所であるようにも思われるが、それは逆にとれば、監督が一つの形態には“没頭できない”あるいは“没頭しない”、という事を意味するようにも思われる。例えば、携帯に細工をする少女に母親が初めて接触する時、アンテナに“うんこ”をかたどったビニル模型が付いていたことや、観覧車で男二人を尋問する時に彼らがシンナーでコミカルな人物になっていたが、その様な演出にいらだちを覚えた人がいるかもしれない。これらのシーンは、監督が常にあるジャンルに対して俯瞰的な視点を確保しているという正にその証拠であり、その視点はしばしば、型にはまった娯楽を求める人間とは相容れない物となるのである。
以上のように述べたところで、結局これらの事は、この作品において如何なる積極的な意味を持つのか、という事が問題になるかもしれない。ここで確認しておきたいことが一つある。この作品のいかなる部分においても、その進行の原動力を成しているのは、母親の息子を思う気持ちである。そして結局、監督が言いたいのはこの点なのだ。
つまり、この映画においては、母親とその感情に重点が置かれているが、それはジャンル的な制約、さらには映画的な制約すらも超え出るような極度の感情だったのである。最初のシーン、すなわちあのダンスで、既にそれは示されている。いきなり動くカットから始まるのもさながら、あの踊りは全く映画的に演出されたものではなく(カメラ目線、高原と音楽のミスマッチ、情けない踊り)、見る者に違和感を与えるのは必至である。あのダンスは一つの謎かけだ。すなわち、なぜ監督は、このような演出をしなければならなかったのか、という謎である。しかし観客は、シーンを追うにつれて、次第にその意味を理解していくであろう。母親は、最初は単なる母親であったが、息子を助けるための必要に応じて、ある時は探偵、ある時は殺人者に姿を変える。そして監督はこれをただ物語的に描くだけでは満足せず、母親の息子を想う極度の感情を表現するために、母親の変化に従って映画の性質までも変化せしめたのだ。いや、むしろ母親の感情が非常に強烈であったことから、彼女は映画自体の性質すらも自身に従えてしまったのである。最初のダンスはこの監督の意図、あるいは彼女の感情の、映画の枠をも超え出る極限性の提示であり、また、この映画のジャンル間移動的な性格が、このテーマに沿って肯定されえるとすれば、正にこの点のみにおいてであろう。
この映画では、依然として粗くはあるが、ある極限の感情を描くときに用いる方法論のうちの、将来的により有用なものとなりうる一つが示されていると言ってよいであろう。そしてポン・ジュノの作品が娯楽か芸術かという問いかけに戻れば、それは娯楽映画を素材として用いた芸術的な複合構成であると言えそうである。すなわち両方の性質を彼の作品は重層的に解消しているのである。
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