[コメント] 破戒(1962/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ただ、だからこそ、宮川一夫の撮影が際立って感じられる、ということでもあり、私のような構図フェチとしては冒頭から決めまくった均衡のとれた構図の連続で、それだけで高評価してしまうというカラクリになる。
さて、映画を見た後に、和田夏十(と市川)の仕事ぶりを確認したくなり、原作も読みました。無粋ですが、原作の改変部分も交えて特記すべき事項を上げておきます。
まずは、映画では冒頭に、主人公・丑松(市川雷蔵)の父親(浜村純)と牡牛との対決シーンを持ってくる。この措置で、宮川撮影の強烈さも手伝って出色のオープニングになっている。(原作ではこのクダリは中盤に出てくる)。
あと大きいのは、本作は藤村志保のデビュー作であるが、彼女が演じる「お志保」の描き方だ。本作では主人公の丑松・雷蔵が、蓮華寺を訪ねたシーンで、いきなり、志保がアップで登場するのだが、原作では後半まで目立たない存在だ。逆に原作では後半になって主人公の志保への恋慕の感情がかなり熱烈に語られるのだが、この映画では、雷蔵の感情の表出は淡泊であるという違いがある。
同僚の教師で親友の長門裕之は随分とステレオタイプな造型に見えるが、原作通りだ。住職の中村鴈治郎と、その妻杉村春子の出番はもっとあっていい。食い足りない。原作でも多くの出番はないが、映画としては、この2人の傑出した演者をもっと見たいと思ってしまう。鴈治郎が志保を襲う演出も、こういうところは、もっと過剰でいいんじゃないかと思うのだ。
思想家の猪子蓮太郎は三国連太郎。その妻岸田今日子がいつもながらの強烈な個性だが、映画では蓮太郎は、丑松の身分に気が付いていた、という演出がある。こゝは原作と違う。原作の丑松は一人、打ち明けることを迷っているだけだが、映画では、蓮太郎が訪ねてきて、問うシーンがあるのだ。
あと、映画に大きく違和感を感じたのは、クライマックスの教室での告白まで、学校での授業シーン等がなく、生徒としての子供は、一切登場しないということだ。こゝ(告白シーン)で初めて生徒達の様子が描かれる。しかし、この措置は『二十四の瞳』のように生徒との交流を描くことよりも、差別意識にフォーカスを絞ったプロットを志向したということであり、違和感はあっても、決して悪くないポイントの絞り方だと思う。告白の科白は島崎藤村のテキスト通りで感動する。
尚、映画では、ラストで海外(テキサス!)への移住を示唆する部分も割愛されている。これも、これで、よろしいと思う。
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