[コメント] マイマイ新子と千年の魔法(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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ありきたりなことを言えば、「素晴らしい」の一言。いや、素晴らしいというより、「色々な感情を揺り動かされた作品」と言うべきだろうか。いろんな意味で心にあるツボを押され、気が付くと涙が出ていた。
田舎の風景。退屈さを紛らわすために空想の羽を伸ばして遊んだこと。あの頃よく遊んだ友達。親の力にも限界がること、初めて現実のやるせなさに気付いたこと。そんな懐かしさもあるし、すっかりご無沙汰になった故郷から遠く隔たってしまった自分自身を振り返りもした。
子供は空想の天才で、周りになんにもなくても、それがあるなら退屈はしないし、子供なりに負いきれない現実を前にしたとき、空想こそがもっとも大きな生きる力にもなるもの。本作は本当に何もない田舎町で、それでもそこに生き生きとした過去の脈を感じ取られる子供の生活をかいま見せられ、なかなかにほのぼのした気分にさせてくれる。
これだけでも充分ノスタルジックな良い話にまとめることはできよう。『となりのトトロ』なんかはその典型的な例だ。
しかし、本作はそこで終わる作品ではない。勿論それはノスタルジーと深く結びついたものなのだが、本作の登場人物は、確かに“生きている”ように感じられるのだ。
改めて考えてみると、私に対して本作が与えた最大の感情とは、「後悔」と言える。別な側面でいえば、「羨ましい」というもの。過去に思いを馳せ、「私にもこんな時があったら」と思わせてくれる力があった。何が悔しいか。と言えば、新子のような生き方が出来なかったのが悔しいし、新子のような友達がいる貴伊子が羨ましい。こんな子が(別段女の子でなくても結構)傍らにいたら、自分の子供時代はどれだけ輝いていただろう…そんなことを思うととても悔しい思いにさせられる。思い出の中のリアリティに触れてくるものがある。だからこそ、この登場人物達は“生きている”と思えてくる。
それだけここでの人間関係がリアルだったということだが、そこで私が子供時代を振り返るに、何故羨ましかったか。と、考えていくと、そこに“勇気”と言うものが存在したか否か。と言う事だったかも。
ここに登場する人たち、特に子供たちは、みんなしっかり勇気というものを持った存在として描かれている。
その代表はやはり新子であろう。一見単なる空想がちの少女のようでありながら、その生活の節目節目に見られる勇気は、とても共感させられる。
子供にとって、まず一番勇気を必要とするのは、友達を作ると言うところ。新子が最初に貴伊子と友達となるシーンは、とても重要な点。
最初都会からやってきた貴伊子は、自分の周りに壁を作り、その壁を感じ取ったクラスメイトは誰も彼女に話しかけようとしないし、それどころか、クラスに入り込んできた異分子として排斥しようとさえする。そんな空気を感じているため、貴伊子はますます壁を厚くしようとしていた。そんな貴伊子に対して新子がやったことは、ずかずかと彼女の生活に入り込み、壁を破壊する。それでも尚壁を作ろうとする貴伊子に対して、自分自身の空想を押しつけることで、あれよあれよという間に、心の壁を乗り越えてしまうのだ。
この時点で視聴者である私たちは新子の方ではなく、貴伊子の方に感情を持っていかれ、「ああ、私にもこんな友達がいたらなあ」と言う気にさせられていく。子供の頃、「私にもう少し勇気があったら」の最大の後悔は「あの人ともっと友達になっていたかった」だったから。人と友達になることはそんなに難しいことではない。しかし、そのために必要だった勇気の足りなさというものを深く感じさせてくれるのだ。誤解されたまま没交渉となってしまった友達を思いだし、あの時素直に謝っていれば…などという感情にぶつかり、そこで貴伊子には新子という友達がいた。と言うことで、「羨ましい」という思いが出てくる。いつの間にか、新子と貴伊子の両方に感情移入してしまい、後悔と羨望がやってくる。先ずその部分でかなり感情の揺れが来た。
その後もいくつも「勇気」を示す話は出てくる。同級生に対しても、貴伊子とは別な意味で人との間に壁を作り続けているタツヨシに対しても、やっぱりずかずかと心に踏み込んで、それでいつの間にか友達になってしまっていく新子。大切な金魚が死んでしまった時、罪の意識に苛まれた貴伊子に心配かけまいと、死んだ金魚の生まれ変わり(?)を探しに行く姿。そして自暴自棄になったタツヨシの心を受け止めてつきあう姿…物理的な意味では新子の行動は「勇気」というものとは違っているかもしれないけど、殊友達関係に関しては、「ニブい」と言うほど相手の感情に入り込み、そしてその感情を共有していける細やかな感性を持っていたと言うことになる。これこそがリアリティのある「勇気」であると言えるだろう。
結果、物語の最初と最後では新子自身は全然変わって見えなくても、他のキャラがみんな活き活きしている。あんな伏し目がちで、笑い声もぎこちなかった貴伊子が最後には大口開けて笑ってるし、タツヨシもあれほどの辛い現実から、笑顔を見せるまでに回復していくのだ。
現実は残酷であったとしても、それを癒せる「勇気」が、あるいは「勇気」を持った友達が傍らにいることが、どれだけ生きていく力になることか。ほぼ完全に後半は物語の中に入り込んでいた。
それを通して本作を「羨ましい」と言おう。
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