[コメント] マイマイ新子と千年の魔法(2009/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
中学だったか高校だったか、国語の授業で「異文化としての子ども」という本の読書感想文を求められたことがあった。宿題をとことんサボる劣等生だった私は、その本の内容どころか、きちんと読んだかどうかも記憶が定かではないが、その「異文化としての子ども」というタイトルだけはやけに印象に残っている。
そのタイトルは、ロックスターやラジオDJが様々な言葉を費やして語る「大人はわかってくれない」よりずっとしっくりと、私の心に入り込んできた。「大人になりたい」と「子どもでいたい」と「大人にならなきゃいけない」と「大人の前では子どもらしくなきゃいけない」と、そんな無数の強迫観念に囚われていた私にとって、それを大人が「異文化」と言ってくれたことが何より心に染みたのだと思う。異文化、つまり「私と君はちがうんだよ」という言葉は「人である前に子どもであっていいんだよ」と私の存在を正当化してくれる魔法の言葉だった。
だのに、いま思い出したけど、たぶん私はこの本を読んでいない。タイトルだけ見て、その文庫をひとたび握り締めて、どこかへ置いてしまったのだと思う。きっと、裏切られるのが怖かったんだ。大人には子どもの都合なんて関係ないから、いつだって大人は私たちを痛めつけようと手ぐすねを引いているから、きっとその本を書いたのも大人だから、私はその本を開けないでいたのだと思う。いま考えれば完全に被害妄想だし、そんなに、というか、まったく悲惨な幼児体験なんてないし、家庭や教師にも恵まれていた方だと思うけれど、あのころの私はそんな子どもだった。
いま、私は大人になった。大人として、子どもたちに対峙するとき、私はいつも怯えている。私が見た大人たちのように、彼らは私を見ているんじゃないか。私を恐れているんじゃないか。嫌っているんじゃないか。理由もなく、だけど切実に、私を憎んでいるんじゃないか。表面上は何とか取り繕ってニコニコしているものの、心の底ではいつも怯えている。
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半年くらい前、仕事の関係で養護施設を訪れたことがあった。事情があって親と暮らせない子どもたちは、ひょっこり現れた見ず知らずの大人である私に、何のためらいもなく突進してきた。なんだかふかふかしていて、すべすべしていて、いい匂いのする小さなその生き物たちは私にしがみつき、私をよじ登り、私の口におやつのラムネを押し込んできた。私は、泣いてはいけない、と歯を食いしばった。ここで泣いてしまえば、それは彼らに対する最悪の裏切りだという思いを強く感じて、私はガハハと声を出して笑って、知っている限りのプロレス技を彼らに繰り出し、やり返されれば彼らの攻撃をすべて受け止めた上でピンフォールを奪い取り、強さを誇示して見せた。必死だった。本当に、必死で笑って見せた。
大人は、子どもに対するとき、意味不明なことをしてはいけない。あれからずっとそんなことを考えている。意味がわからないことは不安を呼び、不安は恐怖を呼び、恐怖を避けるために人は心を閉ざす。心を閉ざせば、人は孤独になる。
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『マイマイ新子と千年の魔法』という映画を観た。昭和30年代の山口県の物語だという。
瞠目したのは、亀を引きずった少年のグロテスクな姿だ。薄汚く、他人の大切なものを平気で傷つけ、刃物を振り回すその少年は、まるでその時代のその地域の“穢れ”そのものとして描かれている。危険で、残酷で、無神経で、愛嬌のひとかけらもない、恐ろしい存在。
これは凡百のアニメ映画じゃない、と思った。作家はリアルを描こうとしている。「異文化としての子ども」という文言が思い浮かんだ。そこには大人には計り知れない価値観があり、ヒエラルキーがあり、相互理解がある。そのリアルを、作家は描こうとしている。それは宮崎も細田も原もあんまりやってこなかったことだ。単に目線を下げる、ということじゃない。スクリーンの前の子どもに対して「おまえら、こいつ怖いだろ、理由もなく怖いと感じるだろ」と糾弾する行為だ。貴伊子の目を通して、片渕は異文化のなかでの断絶をまず描いたんだ。
この描写が、どれほど子どもたちに響くものなのか、大人になってしまった私はもう想像するしかない。だけど少なくとも、私はこのシーンに作家としての誠意を感じた。子どもの世界という異文化に理解を示す、という覚悟を感じた。
貴伊子が見た千年前の夢、それは、人と人とがどこまで深くつながり合えるか、分かり合えるかを描いている。ひととき友を失い、亡き母に思いを寄せた独りの夜、貴伊子は初めてその夢を見る。孤独の底に沈んだ夜に、自分が孤独でなかったことを知る。
一方で新子はタツヨシとの冒険で、いつか自分にも訪れるであろう「異文化からの脱却」を目の当たりにする。子どもの世界から一歩踏み出していくタツヨシを見送りながら、その小さな世界にいつか終わりが来ることを実感し、「だから今のうちに(子どもとして)遊べ」と叫ぶ。
新子とタツヨシとの別れ、そして新子と貴伊子たちとの別れ、そこには笑顔しかなかった。この「笑顔の別れ」を描くための、この映画だったのだと思う。子どもも大人も、生きている限り必ず別れが訪れる。それは悲しいことに決まっている。だけど、笑顔で別れることだってできる。分かり合い、つながり合っていれば、別れは決して孤独ではないと映画は優しく諭す。
この映画の話術とテクニックは、すべてそのことを語るために費やされていた。そう思ったら、泣けて泣けて仕方がなかった。だってそれは、大人にしか語れないことだから。大人が子ども向けに何かを作るって、そういうことだと思うから。
「ええ人よ、みんなええ人たちばっかりって」新子は貴伊子の手を握ってそう言った。
30過ぎて思うことじゃないが、この国にはまだ信じられる大人がいるんだって、そう感じた映画だった。ありがとうございました、と言いたい。
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