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[コメント] インビクタス 負けざる者たち(2009/米)

実在の人物を役者が「演じ直す」ということのどうしようもない胡散臭さ。…なんて、そんなことを意識させられてしまうということは、やはりこの映画がどうしようもなく映画の外部に依存してしまっていることを証しているのではないか。

たとえばモーガン・フリーマンが少し足元が覚束ないようにして歩くその歩き方。それはきっとネルソン・マンデラ本人の歩き方を研究して模倣したのだろうと推察されるが、それは正直、尤もらしければ尤もらしいほど、どこまでも胡散臭い。冒頭の記録映像風に加工された映像の中で、フリーマンが一連の「マンデラ」を演じている、やはりその胡散臭さ。大群衆の歓声に片手をあげて応える「マンデラ」、映画の為にこそ集められた大群衆でしかないことが見え透いているのにも関わらず、それをそのままに見せられる、やはりその胡散臭さ。更には、結果の分かっているゲームの過程を、さも某かのリアルタイムの出来事であるかのように演出される、その胡散臭さ。

映画とはもとよりツクリごとを尤もらしく見せるものなのだから胡散臭いものなのだとは言えるかもしれないが、しかしこの映画の胡散臭さは、なまじ尤もらしさに依拠している分だけ、映画というものの本来の在り方からは遠ざかる胡散臭さなのではないか。映画は、映画の中だけで、実際には起らなかった出来事だったとしても恰もそれが起こったかのように錯覚させられてこそ、だと思うのだ。それがこの映画は、その尤もらしさに於いて、映画の外部、即ち実在のネルソン・マンデラという人物や実際のラグビー南アW杯という出来事を積極的に想起させるような造りになっている。

あるいは監督は、この映画を事実を伝える為のメディア(媒体)としてだけ位置づけたのかもしれないが、だとしたら、あるいはだとすればこそ、それは当然素直に見れば、映画としては評価出来ない。なんとなれば、それは尤もらしさに依拠することにより、却って本当のことが嘘のように見えてしまうからだ。なんとも不思議なことだが、それは嘘なのだ。たとえば単なる役者が英雄的歴史的大統領を演じているという端的な嘘。嘘は嘘の内部で完結してこそ本当のことを乗り越えて嘘なりの真実を語ることが出来るはずなのだが、この映画はなまじ尤もらしさに依拠している分だけ、嘘が嘘だと逆説的に露呈してしまう。

そしてそれは、一国のナショナリズム発揚の物語だ。ナショナリズム発揚がそれだけで胡散臭いわけではないが、しかしそれが内的な過程の必然性を通して描かれないのであれば、やはりそれは胡散臭い。しかつめらしい儀式を皆が真顔で演じていることに噴き出してしまうような、そういう種類の滑稽ささえそこには立ち込めているような気さえする。

(評価:★3)

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