[コメント] コララインとボタンの魔女(2009/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ヘンリー・セリックの仕事に触れるのは個人的には『ライフ・アクアティック』以来となるが、ティム・バートンの作品として語られることの多いアニメーションのニュー・クラシック『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』もやはりセリック監督の映画なのだという思いを新たにする。生死の境界の曖昧さを思わせずにはいられないダークな舞台の上で倫理的にしごくまっとうな物語が展開される、という世界観の点についてもそうだが、それこそ首をかしげたりよろけたり、絨毯のふくらみを踏みつけたりといった小さな動きにキャラクタの生命を見出すまなざし、さらにそれを画面化するプロフェッショナルな手つき。そうした物語の本筋とは関係のないコララインの一挙手一投足が瞳をひきつけて止まない。引越しに伴う友人との別れや環境の変化、自分に関心を寄せてくれない両親、異様な隣人たちといった諸々による少女の不安定な心理が生み出した物語にもかかわらず、当のコラライン自身は陰鬱な影を引きずらないお転婆娘だ。物語との不釣り合いを引き起こしかねないその造型を、前述したような小さな動きの数々が魅力的に正当化する。そしてコララインが秘める面白さに対する私たちの発見的姿勢は、彼女を「鏡」として、そのまま演出家の発見的姿勢に重なっていく。
いかにも活劇的な大きなアクションは少ない。ワイビーの自転車アクションが該当するくらいか。しかしトビネズミのサーカスや女優コンビのステージのシーンは、そのからくり仕掛けも含めて、やはり「動き」の面白さを高らかに謳っている。庭に花で拵えられたコララインの顔を高みから臨むカットや、その魔女世界が崩壊していくさまのディジタル感覚な描写、あるいはそうしたところに限らず、そもそも家屋や庭や周囲に広がる風景といった映画世界の視覚的な基礎付けの段階においてもスペクタクルな画作りが目指されており、その緻密な仕事ぶりに感激する。
3D表現に関しては、たちこめる霧の立体感や三人組の子供幽霊の背景との遊離ぶりに特に驚きを覚える。『アバター』でも植物の胞子か何か知らないが桃色に光る小さな無数の浮遊物(私はケサランパサランと呼んでいました)にびっくりしたが、今のところ私はこうした気体や浮遊物の表現に3D映画の可能性を見ている。
お話について云えば、ボタンの魔女の動機が弱いのは映画の弱点かもしれない。彼女が子供をさらうのは愛を向ける対象を求めてのことらしいが、それを裏付けるような(ボタンの魔女にも一片の同情の余地を残すような)挿話が提出されていれば一個の物語としての奥行きと緊密度はより増したはずだ。もちろんそれはコララインの冒険に対する印象を散漫にする危険性も孕んでいて、ヘリックもまたそのように判断したのだろう。私もヘリックを支持する。
ところで、私はこのような人形アニメを多く見ている観客ではないのですが、コララインがいぶかしげに目を細めるときなどにおいて、下まぶたが上に向かって閉じることにも驚きました。もちろんすぐさまアードマン・スタジオの仕事との類似性を思ったのですが、これは人形アニメの世界にあってはけっこうスタンダードなデザインなのでしょうか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (1 人) | [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。