[コメント] 何という行き方!(1964/米)
信じられないことが起こることが映画だという思い込みに圧死した作品だ。映画は時に普通に起こりうることも起こっていよいよ多彩に輝く。この映画では唯一普通なシャーリー・マクレーンだけが普通さを経由した普通でなさを獲得しており辛うじて及第点。
「古典的」とか「厳密」という言葉に近接していると思われるヴィスコンティやキューブリックは、ある意味jazzyかつfuzzyであることで作品の強靭度を増している。
偉大な監督は映画に関わる俳優も含めた様々な職人たちとの対話の成果を謙虚にフィルムに収めることに細心な人のことであって、矮小なアーキテクチャーを末端にまで徹底することに腐心した人のことではない。
映像がストーリーを侮蔑的に蹂躙しうる程度に、さらにはスターのスター性がフィルム全体を覆い尽くす程度に、演出は程々に弱くなければ良い映画足りえないという奇妙なパラドクスを映画史は帰納法的に証明し続けてきた。この作品はこのパラドクスを逆側から鮮やかに照射した反面教師的駄作だ。強すぎる演出意志が作品を食らい尽くしてしまった。基本構想の狭さに息苦しさを覚える。スターの恒久性ではなくスターの一回性が、映画イディオムの機能性ではなく映画イディオムの虚飾性が延々と実況された無残な記録だ。
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