[コメント] アリス・イン・ワンダーランド(2010/米)
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『ビッグ・フィッシュ』以降ティム・バートンは一貫して「〈現実〉といかに折り合いをつけるか」をテーマに据えている。それにあたって「ファンタジーを介する」というのが彼の方法論であり、そこにまた彼の特異な(とされている)ヴィジュアル感覚を表出させる画布が調えられることになる。
ところで、「少年少女が異世界での冒険を通じて成長する」という類型の物語を持つ映画は『オズの魔法使』から『コララインとボタンの魔女』までそれこそ枚挙にいとまがないだろうが、それらは「異世界」なり「冒険」なり「成長」なりの内実を変数として具体的な一個の物語を完成させる。たとえば、果たして本当にそれを「成長」と呼んでもよいものかと疑義を抱かせるほど苦く痛ましい少女の成長を描いた『パンズ・ラビリンス』のような映画もある一方で、『アリス・イン・ワンダーランド』における成長が「〈現実〉と折り合いをつけること」であるのは云うまでもない。むろんバートンにあってそれは夢や空想を捨てて実際的に生きることと同義ではなく、この映画においてもまたワシコウスカが「事業を展開するために中国に旅立つ」という(アンダーランドの冒険と比較すれば遥かに現実的であるが)やはり突拍子もない冒険的行為で物語は締めくくられる。
たとえ批判的なまなざしで眺めてみたとしても、これがバートンらしくほぼ抜かりなく仕上げられた映画であることは否定できない。しかし、と私は思う。いまだに任意の画面を脳裏に思い浮かべただけで涙が流れてしまうほどの大傑作『ビッグ・フィッシュ』の作家に期待しているのはこの程度の映画ではないのだ、と思う。二〇〇五年以来バートンは私の期待を裏切りつづけている。それについては「細部の設え」「アクション演出の達成度」「画面の強さ」といった方面からも語ることができるが、ここではとりわけ「アンダーランドの実在性を強調しすぎている」という点を指摘しておきたい。
先述したように、これは「少女が異世界での冒険を通じて成長する」物語だ。ここで特に「異世界」が「非-現実世界」である場合、その実在性の危うさが映画の支点となる。要するに「実在する」とも「実在しない」とも云い切らない曖昧さをどう按配するかという問題である。『オズの魔法使』であれば、ジュディ・ガーランドの「カンザスへの帰還」は「気絶からの目覚め」と等しいもののように描かれる。オズの国とはやはり夢の産物に過ぎなかったのかと思わせつつも、しかしそのガーランドの前にカカシ男・ブリキ男・獅子男の「モデル」が現れる。この生活世界と異世界を「越境」する存在によってもたらされる両世界の関係性の機微(多義性)が決定的に感動的なのだ。翻って『アリス・イン・ワンダーランド』においてワシコウスカは、アンダーランドに関して幾度も「どうせこれは夢なのよね」と確認を繰り返し、そして最終的には「これは夢じゃないんだ!」と確信してしまう。このような作劇ではアンダーランドの実在性が強調されすぎて、両世界の関係性に情趣が乏しいのではないか。生活世界に帰還した後にも彼女の腕にはバンダースナッチに加えられた傷が残っており、これもまたアンダーランドの実在を証拠立てる要素となってしまう。だから私は、ここで傷は跡形もなく消え去っているべきだと思う。ワシコウスカにとってアンダーランドの実在はほとんど確信されながら、しかしあの深かったはずの傷は消えてしまっている――そのように仕組むことでようやく異世界の実在性の曖昧さが保たれるのではないか。
ワシコウスカに「アンダーランドから帰りたい/に残りたい」という意思が希薄にしか認められないことも、アンダーランドの在り方から感動を奪っている。云い換えれば「アンダーランドを救う」という行動の動機づけが弱い。アンダーランドを救うこと=武力による王位簒奪はヘレナ・ボナム=カーターの目に余る恐怖政治ぶりによって物語的(対-観客的)には正当化が図られているが、ワシコウスカにとっては果たしてどうか。もちろん彼女はジョニー・デップからボナム=カーターの悪行を伝え聞いており、またそれが彼女に心境の変化をもたらした一端となってはいるが、それはまさに伝え聞いただけであって、実際に目にはしていない。むしろワシコウスカは「大きな頭部を有する者」としてボナム=カーターから丁重に遇されている。あるいは、次のような云い方をしてみよう。以上のような動機づけ云々を瑣末な問題と片付けてしまうには、もしくは能動的な動機づけなど存在しえないほどワシコウスカを徹底的に「周囲に振り回される人」として成立させるには、まだまだアンダーランドに荒唐無稽さが足りない。
ボナム=カーター演じる赤の女王が、ことキャラクタ造型の点でバートンの関心を最も集めている存在だというのはほぼ明らかでしょう。この映画は彼女の切なさに救われています。クリスピン・グローヴァーもよいですし、アン・ハサウェイの舐めた芝居にも捨てがたいものがあります。CGキャラではヤマネとチェシャねこが特に気に入りました。
3D吹替版、続いて2D字幕版を見ましたが、後者のほうがより楽しめたということを付記しておきます。3D吹替版のみしか見ていなかったならば、これはバートンでも最も愚かしいフィルムだという印象を持ったままだったでしょう。もっとも、ディジタル上映である3D版は文字通り「フィルム」ではないのですが。
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