[コメント] のだめカンタービレ 最終楽章 後編(2010/日)
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いうまでもないことだけど、恋愛ものとは常に(悲恋もの以外は)「2人のゴール」を目指す物語だから、読者や観客が結ばれて欲しいと思う男女が、最後に結ばれるまでのそのプロセスのあれやこれやと、いつどうやって結ばれるかを楽しむ作劇だ。
「のだめカンタービレ」にとってののだめと千秋のコンチェルトは、作劇上の「ゴール」となることは、作者も読者も共通認識である(ゆえに本作は徹底して2人の共演を描かなかったのだ)。
原作がコメディ以外で秀逸な点のひとつには、「恋愛の成就=のだめと千秋との共演」という視点を原作者が逆手にとって、物語図式にからめとられた読者の心理を代弁するかのように、ヒロインのだめの中に「千秋との共演=音楽の成就」というすり替えを起こさせ、彼女の音楽家としての自律性をゆさぶってしまうという点をテーマにすえたことだと思う。
それがこの最終楽章後編の白眉で、ちゃんとそういうふうに本作は描いたと思う。いやむしろくどかった。そのテーマへの深刻なとりくみが重く作品を支配しすぎたと思う。
ルイと千秋のラベルのコンチェルトは、いつかは自分が彼氏とのゴールの時のとっておきを目の前で収奪されるエピソードであり、千秋やオクレールがのだめに「淑女教育」を施そうとしているところを横から入ってきて彼女本来の野性の魅力を引き出すシュトレーゼマンのエピソードは、「彼女のことを一番わかっているのは誰かな?」という恋の鞘当である。こんなところ重く描いてもしょうがないしょ。
のだめの中での「クラシック音楽かくありき?」的な投げかけというのは結構面白いところをついていて、クラシックという「厳密な再現性」を重要視するジャンルの音楽に 対し、恋愛を下敷きに(音楽を下敷きにではなく)うまく音楽的な価値観を描いてしまっているところが面白いのだ。
最後にテルミン奏者が出てきて譜面どころか、音階も調性もない楽器の演奏でのだめが息をふきかえすシーンなどは、映画なら原作よりももっと強調しておかないとただのエピソードで流れてしまいそうだし、ルイと千秋のラベルのコンチェルトシーンでルイにのだめがオーバーラップするシーンも一瞬ならともかく、いわぬがはなをしつこく繰り返すのはよくない。
まして千秋に「負けませんよ」という最後の台詞は、ただのクラシック音楽家のスキル的な話に矮小化されるようで相当の減点と思う。
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