[コメント] エンター・ザ・ボイド(2009/仏=独=伊)
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作中人物の視点を標榜するPOVショットは必然的にカメラ・ポジションとアングルに厳しい制約を課す。作中人物が回すハンディ・カメラによる映像という設定のPOVショットで全篇の大部を構成した映画(ハウメ・バラゲロ/パコ・プラサ『REC』、ジョージ・A・ロメロ『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』、オーレン・ペリ『パラノーマル・アクティビティ』、マット・リーヴス『クローバーフィールド HAKAISHA』等々)は、往々にしてその制約の厳しさ=不自由を逆手にとってサスペンスや恐怖の創出をもくろむだろう。一方ジュリアン・シュナーベル『潜水服は蝶の夢を見る』は、視点の主体たる人物の動きさえも奪って不自由を徹底させることで映画の感情を育もうとするにちがいない。翻って『エンター・ザ・ボイド』はそのPOVショットに「死者の視点」という大胆な設定を与えることで制約からの解放、すなわちカメラ・ポジションとアングルの自由―むろん相対的な自由にすぎないが―を獲得しようと試みる(「死者の視点」の独自性に固執するあまり俯瞰アングルに囚われすぎたきらいもある)。個人的な意見を述べれば、同じく「死者の視点」を採用した(という解釈が可能な)ジャン=ピエール・ダルデンヌ/リュック・ダルデンヌ『息子のまなざし』が敢えてどこまでも不自由に留まってみせたことのほうがより興味深いところではある。
またロバート・アルトマン『ロング・グッドバイ』のように一瞬たりとも静止することのないカメラは、「死者の視点」という設定が許した自在な動きと撮影・編集テクノロジーの進歩によって、容易に(見かけ上の)ワンカットのロングテイクを実現させる。編集点の捻出に四苦八苦したアルフレッド・ヒッチコック『ロープ』とは当然ながら隔世の感がある。その点でもアレクサンドル・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』との比較は有益だろう。
さらに、「死者の視点」であるがゆえ、何らかの契機さえあれば画面はカッティングなしで時空間を飛び越えさえする。ここで「契機」とは、まず「空間的近接」を挙げることができる。近接さえしていれば壁で隔たれた空間にも通過・移動できる。最も端的な例は、視点が宙に上昇を続け、ついには飛行中の飛行機内部に入り込んでしまうカットだろう。他に「契機」としてあるのは「カメラの運動の相似」だ。ローラーコースターの記憶から交通事故の記憶へとひと続きに移行する、といったように。また「被写体の形状の相似」も「契機」として働いて時間を越えたワンカットを生むだろう。
さて、ここまで「死者の視点」と呼んできたものの主体はおそらく実体を持たない。より厳密に云えば、体積を持って一定の空間を占める存在ではない。そのような主体であるがゆえに、映画は結末部においてリチャード・フライシャー『ミクロの決死圏』の性的変奏がごときPOVショットまでも正当化してみせる。そこまでやるかと驚くが、理屈の上では当然の帰結とも云える。
『エンター・ザ・ボイド』はひとつの設定に基づいてまことに合理的にショットのヴァリエーションを追究している。ただし、むろん、果たしてそれが面白いのかどうかという問題はまったく別に議論されるべきところである。
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