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[コメント] 借りぐらしのアリエッティ(2010/日)

大きさと小ささ。こんな見知らぬ世界がすぐそこに広がっているかも知れないというイマジネーション。そして「借り」ぐらし。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







たとえばたった一本の部屋の片隅にうち捨てられていた待ち針が、見も知らない小人の少女の初めての獲物としてその腰にさげられて重宝されることになる、とか。それだけとっても、この作品にこめられた所謂“センス・オブ・ワンダー”は本物だと感じる。というか、これをそう呼ばずして何をそう呼ぶのだろう。そんな描写を目にするだけで、子供の観客には、見慣れていた筈の自分の世界が、何か違ったものに見えてきたりするのではないか。小人達のサイズに即して液体がより粘液状にまるっこいどろどろとして描かれていたり、人間にとってはなんの価値もないような何気ない小物が小人達にとっては貴重な生活を支える道具だったり、それを細部というなら、それらはまさしくこの世界の人間にとって意識されざる細部であり、その描写はそれらうち捨てられていた筈の世界の細部に生命を蘇らせるような胸躍る描写だったと思う。そして、その中を動き回る小人の少女、その身体の感覚。たとえば初めて人間の少年と目があってしまった時の、呼吸が止まってしまうかのようなその緊張感。人物達の生理が、そこに生き生きと描写されているのに、これはやはり宮崎駿の映画であると意識せざるを得なくなる。何かのテレビ番組上では、宮崎駿はあまり演出面では口を出していないというようなことを言っていたような気がするが、それでも実際に観てみると、これはまさしく宮崎駿の映画だと言いたくなる。あるいは演出を担当した監督が、その流儀をよく継承しているか、あるいは再現しようと努力していたのかも知れない。とにかくその描写には、人物達の生理を基軸にした演出設計が為されているように思われ、生き物が五体の感覚で活動している、その躍動がそこここに見て取れるように思えて、それだけでも愉しかったのが事実だ。

ところで、小人の少女と交感を果たすことになる人間の少年は、ある意味では非常に無神経な人物に見えなくもない。しかしそれは、一旦ひいて考えれば、彼がそれだけ自分の人生に絶望しているからだと考えることも出来る。それ自体庇護すべき儚い幻想そのものであるような小人の存在を目の前にして、平然と「滅びゆく種族」というレッテルを貼る。だがそれは、彼が自分自身を滅びゆく人間として意識している、そのことから由来するある種の心理的投影なのだろう。あるいは小人達の生活を破壊することとも気がつかず、恐ろしい介入の手を小人達の空間に突っこんだりもする。だがそれも、彼が自己ならぬ他者と触れあうことの少ない人間であるが故の、一方通行の行為の表れなのだろう。彼が息せき切って懸命に動くたび、しかし彼は余命幾許もないかも知れないその瞬間を、どんな気持ちで生きて動いているのだろうかと、想像しないではいられない。逆に言えば、それを想像させてくれるようなある種の物言わぬ余白が、その演出には組み込まれているようにも思われ、その意味でも好感は抱かされる。彼は懸命に動いたそのあとに、じんわりと痛みを告げる心の臓を意識して、そのたびに自分の生命・人生の終わりを意識させられている筈だ。だから、小人の少女・アリエッティとの別れの際、彼にとってアリエッティの存在は「心臓」の語に集約される。それは彼にとって、常に自分の生命の終りを意識させられる呪縛だったものが、祝福された生命の証になった瞬間だったと思うのだ。心の臓が痛むたびに、彼はアリエッティの存在を想起することが出来る。そういうことなのだ。

しかし無神経と言ったら、ある意味ハルさんというキャラクターは爆笑ものだった。こういうキャラクターは紙一重だが、ぎりぎり許容できる範囲の人物だったのではないかという気はする。ハルさんがあれだけ小人の存在に反応したのは、それだけハルさんが「子供」だったということなのかも知れない。映画の冒頭あたりで、アリエッティのお父さんやお母さん達が「子供」の存在を警戒するようなことを話し合っていたが、それはまさにハルさんのような、ああいう自分の稚気に素直に(つまり自覚もなく)行動してしまう危険な存在を警戒していたということなのだろう。実際、ハルさんはぎりぎりだ。だが、小人という存在をマスコミに突きだすとか、そういう至極つまらない展開(シナリオとしての発想)にはならず、ただ単純に珍しい虫をつかまえようと躍起になっているようなハルさんは、少なくとも自分には微笑ましい存在に映る。恐らくは演出もそういった稚気の部分を拡大して描写しようとしていたのだろうが、ちょっと拡大し過ぎな感はあって、それが「ぎりぎり」の感覚を抱かせはした。しかし、許容範囲ではないか。

ところでしかし、ハルさんが子供なのに比べると、アリエッティのお父さんは、至極立派な、そして"古典的"な「お父さん」で、懐かしくて慕わしくて涙が出るようだった。しかしそのお父さんが生業としているのは、ある意味ハルさんの言うような「泥棒」なのであって、それを「借り」と呼ぶある種の屈折は、このお父さんの存在にも微妙な陰を落とす。アリエッティにせよ、その立派なお父さんの、そして自分達種族のものである「借り」という生業をそのまま是認するのだが、それはある意味、確かに寄生であって、胸を張れる行為ではないかもしれないのだ。だが、ここで考えるに、それを言うのならば、では人間はどうなのか。人間とて本来は、地球環境から全てを「借り」て、寄生しながら生存し続けている存在なのではないか。「借り」はある意味「狩り」にも通じるのかも知れないが、「狩り」を生業とする人々とて、いやむしろそういった人々こそ、自分達が地球環境から獲物を「借り」ていることに自覚的なのではないか。だとすれば、アリエッティのお父さんは、本質的に「借り」て生存し続けなければならない自分達の存在の宿命に自覚的である限り、自分達が地球環境の支配者であるかの如き傲慢を意識すらしない人間という種族に比べて、より成熟しているのかも知れない。自分の背の丈よりもはるかに大きい草木や動物達の描写は、そのまま『ナウシカ』の世界観を想起させるが、それは決して偶然ではない。

ともあれしかし、そんな教条的な解釈は、この映画には似つかわしくないだろう。飽くまでも少年と少女の交感の物語として、これは観られるべきだろう。少年と少女は、決して男と女にはなれない。端的に身体のサイズが違っていて、したがって住む世界も違っているから。しかしこれは、だからこそ純粋な交感のドラマ足り得る。宮崎駿はそう直観してこの物語を描いたのかも知れない。互いに互いを求めることすらできない。しかし与えあう関係。いい映画だったと思う。

(評価:★3)

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