[コメント] 雨の午後の降霊祭(1964/英)
ものすごい心理劇で、イギリスらしいシニカルが世界を覆い尽くし、こんな世界は支えきれないと、観客がリチャード・アッテンボローより先に心で悲鳴を上げることになる。
**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。
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キム・スタンリーがラジオを自分で止めておいて、なぜ静かになったの?、私がラジオを切るなんてあり得ない、と亭主のリチャード・アッテンボローを詰る冒頭がすごい。アーサーとは誰だ、という裏主題で物語はずっと引っ張られ、亭主の妻への腫物に触るような親切は度を越して誘拐に至る。それもこれも、死産した妻をどういたわっていいのか判らない微妙な人間関係のなせるものだった、と徐々に判明して最後に明確になる。「アーサーが心待ちにしているから(誘拐した)娘を殺して」という指示にまで至り発狂は明らかになる。トランスして倒れる。亭主はもう警察の前でこれを披露するしか術がない。
病者を前に何もできなかった諦念が心に染みる。亭主は優柔不断でどうしようもない男だが、彼の立場から見れば、プライド高い妻を精神病院に連れて行けば妻は妻でなくなるだろう。彼にはどうしようもなかったのだろう。ラストでああそうだったのかとわだかまりが氷解し、切なさが残る。
シャープな爛熟期モノクロの映像美術は近似した世界のある『まごころを君に』を連想させるものがあった。サイドカー使った誘拐の件などクールでいい。誘拐した娘のトイレはどうしたのか判らないのは小さな瑕疵かな。「雨の午後の降霊祭」が開かれるのは冒頭だけだが原題通りだが、意味があるのだろうか。
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