[コメント] あにいもうと(1953/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
父(山本礼三郎)が、娘もん(京マチ子)を妊娠させた学生と会う場面の前後で、彼はその足を川に浸している。川は、東京と、赤座一家が暮らす村とを隔てる境界だ。川は、陰に陽に、この映画の通奏低音のように、作品全体を支配している。
もんは、村の因習に囚われた閉鎖的な雰囲気の中で居場所を失い、東京へ出ていくが、彼女の兄・伊之吉(森雅之)は、せめて家族の中ではもんの居場所が出来るようにと、わざと辛く当たる。この、村の閉鎖性を模倣する事で、それに対して妹を守ろうという、倒錯した在りよう。これはまた彼の、もんを東京に出したくないという思いの表れでもあるのだろう。
村からの解放の地として位置づけられる東京は、それ自体は画面に登場しない。この事は、もんやさん(久我美子)が願う解放への希望が、現実に叶えられるものなのかどうかを未確定のままにする。
さんが、恋人と共に東京へ駆け落ちをしようと乗ったバスに、姉を孕ませた学生が乗り合わせている場面の皮肉さ。彼が無邪気にパクついている饅頭は、さんの母が渡したものであり、バス停の場所を教えたのも、兄。父は父で、何か一喝しそうな強面ぶりに反して、大した抗議も非難も為し得ないままに川に戻るしかなかった。全員が無力。この、「東京」に対する無力さへの憤りこそが、さんをして恋人に「村に戻って、親が決めた婚約者じゃなく私を選ぶと宣言して」と言わしめたのだろう。
終幕間際の、灯篭流しの場面の美しさは、川に灯火を浮かべるという行為に、あの閉鎖的で無力で澱んだ場所である村の人々もまた、心の底には解放への願いを秘めていたかのように感じられる事による。さんはそこで、結局は婚約者を選んだ男の姿を見つける。去っていく彼女の姿を目にする男。続くさんの、笑顔で手を振るショットは、男を喜んで迎えているかに一瞬思わせるがその逆で、村を去ろうとして手を振っているのだ。この、爽やかな解放感と、情を断ち切る冷酷さとの同居。編集の妙技とは、まさにこういう場面を言う。
最も印象的なショットを挙げるなら、村に帰ってきたもんと母親が話す様子を画面の奥に、それを見つめるさんを画面のこちら側に配置したショットだ。ここではさんが観客側に大きく映っているが、カメラのフォーカスは向こうで話すもんと母親に合わされている。この事で、もんの、不幸を潜ってどこか達観したような様子と、恋人と決裂したさんの、二人の会話の蚊帳の外にいる様子とが、見事に対比されている。
加えて言うと、これに先立ってさんが姉と再会する場面では、小川が流れているのが見える。さり気なく川を配し、かつ、さんは姉から「妙な方からやって来たわね」と言われる。この「妙な方向」とは、姉の二の舞という方向なのだ。姉ほど大きな川を越えさせられた訳ではないにせよ。
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