[コメント] 冬の小鳥(2009/韓国=仏)
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本作で最も素晴らしいのは、コ・アソンが自殺の「過ち」を同院生の前で詫びさせられる件だろう。幼い仲間たちは何を真面目な顔をしているのだ、と云った具合にケラケラ笑い出し、先生たちも真面目に聞きなさいなど注意することもなく、アソンはつられて笑顔を取り戻す。これには教えられた。小学低学年の級友と笑い合った日々は人生において貴重であるという認識と、笑顔の伝播する力への信頼がある。映画はこれを、神への謝罪よりも大切なことだとまで云っているように取れる。笑いを忘れたキム・セロンのサイド・ストーリーとして効いている。笑い合うには相手が必要だ、という気付きが、収束の選択をさせたのではなかったかと思う。「無垢の歌、経験の歌」だ。セロンはこれから、自覚とともに笑うのだろう。我々と同じように。
セロンはいつ父に捨てれらると知ったか。孤児院へのバスの行程、トイレで足を洗ってもらった父に唐突に抱きつくときには知っていたのだ。本作はこれを納得する道程の映画であり、(教会で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の説話を聞く)彼女の受難劇である(仏題は「新たな生」)。
自らを埋葬しようとする件はブニュエルやパゾリーニが想起される。このイ・チャンドン門下生は当然これら先行する映画を熟知したうえで、あえて(自分の体験談なのに)回答を示さず、観客に投げ出しているように見える。まず、埋葬を止めたのは、子供らしくやってみたら息が苦しかったからだと取れる。次に、これまで常に背中を向けていたマリア像がはじめて正面から捉えられる。マリア様がお救いになったのだ、と取りたい人は取るだろうが、何だ私の元に来てくれなくて残念と云っているようだとブニュエル・ファンなら取るだろう。確かなのは、この土の汚れを落としてくれるのは、次のカットで外から窓に浴びせられるバケツの水だということだ。水の中から大掃除中の中庭が浮かび上がるこの秀逸なショットで、くすんだ院内が突然輝きを持って浮かび上がる。セロンの何が変わったのかは判らないが、観客は何かが変わったことをこのショットによって知ってしまう。映画でしか語れない抜群のニュアンスがあった。
本作は貧しかった韓国の記録だが、さらにこの孤児院は当時の軍事独裁政権の比喩・揶揄ではないかという想像に誘われる。三度歌われる(アソンの別れに見送りがないのはキリスト教らしい残酷さだった)「蛍の光」が旧韓国国歌のメロディであることからも、何か別のことを語っているように思わされるのだ。この孤児院、どうにも腑に落ちない手落ちが多い。だいたい父親と娘に最後の挨拶ぐらいさせるだろうし、父親の連絡先も知らない訳がなかろう。セロンが苦しむのは、情報が隠蔽されているからだ。血液検査の際に(針を刺すとき教えてという)約束を守らない看護師の断片など、単独では意味が判らず、拡大解釈を誘っているとしか思えない。
海外渡航の収束も代弁のニュアンスがあり、当時在米韓国人が毎年十万単位で増加していたのは、軍事政権を嫌ってのことだった(『子猫をお願い』も最後は海外脱出だったが、あの設定は何年だっただろう)。セロンは当時の韓国庶民の代弁者ではなかったのだろうか。彼等は子供目線を強いられていたのだから。パク・ドヨンの強かな策略もこう見ると辛い。本作で一番不満そうな寮母のパク・ミョンシンも被害者の類型だろう。不満を語る術を知らないセロンに黙って布団を叩かせる件が心に残る。セロンが父と寮母に歌って聴かせるのは75年当時の流行歌「あなたは知らないでしょうね」とのこと。この件も忘れ難い。
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