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[コメント] キック・アス(2010/英=米)

少女(殆ど幼女という印象さえ時に受ける)の口にするダーティワードや暴力(予想より露悪的でなく、単にリアル)は不思議なスパイスとしてまぁいいかと思えてしまうが、それより倫理的かつ映画的な違和感を覚えるのは、過激な行動の一方で主体性が曖昧な点。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ミンディは父から誕生日に何が欲しいと訊かれて「犬」「人形」と答えるが、父の浮かない顔を見て「冗談よ。ホントはバタフライナイフが欲しい」と言って父を安心させる。この「冗談よ」が本当に冗談なのかどうかは正直なところ、よく分からない。そしてそれは、当のミンディ自身にとってもそうなのではないかと思わせる。つまり、父の期待に応えるということは、彼女自身にとっても喜びなのであり、彼女が「本当に」バタフライナイフが欲しかったのか、或いは女の子らしい贈り物が欲しかったのか、その真偽は父の喜び=ミンディ自身の喜びによって雲散霧消する。

そのバタフライナイフを実際に貰うシーンでミンディは、巧みな手首の動きで器用にナイフを操ってみせ「見て見て」と訴えるが、父は来るべき闘いの方に意識が向かっている様子。つまり父にとってヒーローとしての闘いは、復讐であり正義の執行でありまたヒーローとして闘うこと自体が自らの理想の実現でもあるようだが、ミンディにとっては父を喜ばせること、父と一緒に居ること、この二つの意味に集約されているようだ。上述の、バタフライナイフ絡みの二つのシーンは、父と娘の意識の微妙なズレと、だがそのズレを埋める行為は娘にとって純粋な望みであり幸福であることを感じさせる。

観る人によって評価が分かれるミンディ=ヒット・ガールの口汚い言葉遣いや躊躇なき暴力は、世間で許されない犯罪行為をしているということ、つまりは父娘の、互いの存在のかけがえのなさを演出している面もある。それが、既に述べた倒錯的かつ純粋な親子愛と相俟って、何か釈然としないながらもその歪んだ形ゆえに哀切でもあるエモーションをかき立てる。父=ビッグ・ダディとキック・アスの処刑がネット中継されようとしているところにヒット・ガールが乗り込むシーンは、真っ暗闇の中で彼女一人が赤外線ゴーグルを用いていることにより、一人きりで、小さな体に全責任を負って父を救おうとしている健気さがより痛感される。

ヒット・ガールが悪漢に撃たれていながらも生きているのは、彼女と父が初登場するシーンで、防弾着を着けたミンデイが胸を撃たれる訓練をしていたことでその理由が了解される。彼女の生存には父の愛を感じるが、そもそも悪漢に撃たれるような状況に置かれたのは父のせいであり、あの特訓シーンにしても客観的に見れば(この「客観性」というのが何視点なのかというのはちょっと難儀な話だが)児童虐待に見えてしまう。結果、ヒット・ガールによる父救出とその失敗のシーンもまた、感動しながらもどこか釈然としないという、この作品独特の妙な味わいを残す。これが作品の欠陥と言えばそうなのだが、これが魅力とも言えるのが複雑なところ。

デイヴ=キック・アスは、フィジカル面も知性も資金力も皆無なくせに、悪党へ立ち向かう姿にはそれほど躊躇がなく、死さえ厭わないその姿勢は、頼もしくもありまた不気味でもある。ヒット・ガールとは違って青臭い正義感を言葉にする彼は、確実に敵を殺すために努力と投資を惜しまないビッグ・ダディ=デイモンとも違う、自ら殺されに行っているようなその狂信的なヒーローぶりがアブノーマルだ。「連続殺人犯と同じく、空想だけでは我慢が出来なくなる」と言ってヒーロー活動へ向かう彼の台詞、そして彼の在り方そのものは、デイモンとその娘の狂気を体現してもいるだろう。

マーク・ミラー原作の映画としては『ウォンテッド』と似たところもある。痛みを伴うものとして暴力が描かれている一方で、『ウォンテッド』では、深刻な負傷さえも不思議な作用で直してしまう風呂が登場し、『キック・アス』ではデイヴが、不良に刺された直後に車に衝突されたことで、末端神経が麻痺し、痛みに強くなる。そしてどちらの作品も、平凡な少年が、特殊な能力を持つ者たちに見出されて彼らの仲間入りをし、闘いに巻き込まれていく。主人公は、主体性が欠如しているわけではないが、むしろ状況に流される形で行動を強いられ、いつしかそれが彼自身の能動性に転換しているように見える。だが物語を牽引しているのはいずれに於いても、魅力的な女性なのだ。例えば『マトリックス』にもトリニティという女性が登場するが、ネオはあんな設定でいながら確固たる主体性を感じさせる(それは演出による錯覚でもあるのかも知れないが)。その点、『ウォンテッド』も『キック・アス』も、本質的には主人公は何もしていなかったかのような奇妙な空虚感を感じてしまう。

鑑賞中そして鑑賞後にどこか釈然としないものが残るのも、先述した親子関係の問題のみならず、動機と行動の両面に於いて主体的なヒーローはビッグ・ダディ一人であり、その彼自身は途中で死んでしまう、ということにもよるのかも知れない。

(評価:★3)

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