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[コメント] レオニー(2010/日=米)

かなり厭な女でもあるレオニーの人物造形もさることながら、この映画自体がどこか決定的に繊細さを欠いており、凡庸かつ、それなりに退屈な映画。全篇に溢れる異国情緒が救いだが、「省略」が芸に達していない尻切れトンボな編集に萎える。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







何年も(五年だったかな)日本で暮らしていながら一向に日本語を覚えようとしないレオニーのアメリカ的傲慢さ(?)に苛々させられたのは否めない。劇中で彼女が口にする日本語も「ワタシハアナタノイヌデハナイ」とヨネに反論して息子をアメリカに行かせる駅のシーンくらいしか印象にない。レオニーが、母の「言葉も通じない国に行くなんて」という反対に抗して旅立ったり、幼い息子を単身アメリカへ行かせることに反対するヨネを排して意思を貫徹する行為が、結果的には危惧した通りの困難をもたらすシーンで、冒険心に溢れたレオニーの純な思いが世の中の壁にぶつかってしまう様に同情するというより、「それみたことか」という感情の方が先立ってしまうのは、別に大した才能を見せるわけでもないレオニーが「平凡な人間は退屈だわ」などとのたまう厭味な性格を随所で見せるからだ。要は「お前は世の中ナメてんだろ?」と観客に突っ込ませる余地がありすぎるということだ。実際にこういう人物だったのなら仕方がないのかもしれないが、そこのところはどうなんだろう。

そんな彼女が、娘の出産時に「医者でもないのに」「無知」「デブ」と散々罵っていた家政婦と、言葉が通じないながらも何となく心が通い合っていくようにも見える辺りに味わいがあるとは言える。アメリカのヨネ、日本のレオニー、この二人の異邦人としての佇まいそのものがドラマチックであり、また時折挿入される、無言で石に鑿を打つ勅使川原三郎の崇高美も画面を引き締める。言葉や習俗の壁に加えて戦争という決定的な事態が介入してきもする異国生活に加えて、異国間を、壁である筈の「言葉」で乗り越える詩人ヨネでさえ身に染みついている男尊女卑の価値観など、幾重にもハードルが課せられていることで、生活というものそれ自体がドラマとなるのが本作の最大の見所と言えるだろう。夫婦睦まじく支え合っていた小泉八雲の妻や、因習にとらわれた日本の中で女子教育の根を枯らすまいと苦闘する津田梅子との交流は、ほんの数シーンながらも印象に残る。

とはいえ、レオニーがかなり勝手な性格であることは既に述べた通りで、特に納得いかないのは娘への接し方。失恋を嘆き哀しむ娘・アイリスから、「兄さんは父親から芸術家としての才能を継いでいる。じゃあ、私の父親はどんな人なの?」と訊かれたレオニーは、「あなたのお父さんは、私にとって頼れる人で」云々と曖昧なことばかり言い、痺れを切らしたアイリスは「ほんとは誰だか分からないんでしょ?寂しいから行きずりの男に身を任せて…」。ここでレオニーのビンタが飛ぶ。そこまではまぁいいのだが、ここで気まずい雰囲気になったところで、レオニーが急に咳き込むのは何とも姑息な作劇に思える。たとえ齟齬や諍いがあろうとも、最終的には娘は母の身を案じるのだという究極的なところへ一気に話を持っていってしまうのであり、これはずるい。しかもこの直後のシーンで、既にレオニーは死んでおり、ベッドに横たえられて白い布を被せられているのだ。結局、レオニーも娘に対しては、彼女自身がヨネから受けたのと同じくらい身勝手な態度に出ているようにも見える。尤も、アイリスの父が曖昧にされていることで、中村雅俊がレオニーとの別れに際して着物を贈るシーンでの、夜の闇に、中村がレオニーに着物を着せてやる姿が障子の影として浮かぶ奥ゆかしい(と同時に露骨とも言える)カットの印象がより深まりはするのだが。

時間的経緯を端折りすぎと思えるシーン展開は他にもある。アメリカで、学校長が逮捕された(そこにも戦争が絡んでいる)せいで学校から追い出されてしまった少年イサムが、終戦後、この校長と学校の前で出逢って再び生活を取り戻すシーン。イサムがどのように暮らしているのかの描写がおざなりなので、まるで、ずっと学校の前で戦争が終わるのを待っていたのかとも感じさせられてしまう。この校長との出逢いのシーンの前に、レオニーがヨネに、「送金しないとあの子は生きていかれない」と泣きつくシーンがあるので、まぁ送金して生き長らえたんだろうなと推測はできるが、イサムが悲惨な境遇から校長によって救われたというドラマを印象づけるような伏線となるシーンが無いので、「イサム困った→送金完了→校長ご帰還」という平板なシークェンスにしかなっていない。これは完全に演出の怠慢。

この種の、細部に於けるテキトーな処理が気になる。例えば、海浜に少年イサムが棒で何やら絵を描いているのを漁民が見つけるシーン。漁民のフルショットからバストショットへの移行が、同じアングルのままカットを割ることで為されているのだが、同一ショット内でカットを割っているような不自然な印象を受ける。イサムに気づく漁民の演技に合わせてズームを行なうなり何なり、他にもっとマシなやりようがあるのだが。また晩年のレオニーが、青年イサムの日本行きに賛成するシーン。ここではレオニーが、イサムからのものであろう手紙を読んでいるショットに、ボイスオーバーでレオニーが自身の手紙(イサムへの返信だろう)を読み上げているのだが、「手紙を読む画」+「手紙の文面のボイスオーバー」なら普通は、ショットの中で読まれている手紙がそのままボイスオーバーになる筈。一つのシーンで「イサムの手紙」と「それへの返信」を同時に描くのは経済的ではあるが、限られた時間内に物語を収めることを意識しすぎて、観客の感情移入という大事な点が、全篇に渡って疎かにされすぎている。

(評価:★3)

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