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[コメント] 猿の惑星 創世記(ジェネシス)(2011/米)

3.5点。叛逆と、そして独立の物語。ストーリーに粗はあるし、途中での「飛躍」に鼻白む向きもあるだろう。しかし、「創世記」(邦題ナイス)としての語り口の力強さは確かにある。
MSRkb

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







猿はただ知性を獲得したのではなく、誇りを持ったことで初めて人類との決別を決意し、蜂起する。だからこの蜂起を馬鹿な人類への復讐と読んでしまうと、物足りなく見えてしまうだろう。違うのだ、別に人類がすべて馬鹿で猿にひどいことをする奴ばかりでないことはシーザーたちにはわかっているのだ。だがしかし、誇りを得た以上、もう人類の庇護下に入ることはできない。共存は可能かもしれない、しかし歩み寄るのは我々〈猿〉の側ではない……。

ジェームズ・フランコ(猿に知性を与えた者であり、いわば父親である)の存在が、観客の感情移入を終盤まで巧みに「どっちつかず」の宙ぶらりん状態にする。心ない人間の暴虐を見ると猿たちに肩入れしたくなるし、しかしシーザーを「家族」として信じ続けるジェームズ・フランコの良心を見るとまだ和解の機会はあるかもしれないとも思う。まあ見てる俺たちは人類なわけですし。

しかしラスト、アメリカ杉の公園でやっとシーザーと話すことができたジェームズ・フランコが、結局最後まで彼らを「(人類が)守ってやるべき種族」としてしか見ていないということがわかる。パターナリズムと言ってもいい。静かに、ジェームズ・フランコ=〈父〉=人類からの独立を告げ、巨大な杉を駆け上るシーザー=種の皇帝。ここに至って、我々観客も完全に猿となる。我々は独立しなければならないのだ! 種の誇りを! まあそんなわけで人類は勝手にウィルスで滅んでしまった。結局フランコが全部悪い!

敢えて注文を付けるならば、最後にシーザーが「一緒に家に帰ろう」と懇願するフランコに語る言葉(「ここ(アメリカ杉の公園=猿だけで暮らせる場所)が、家だから」みたいなの」)、あそこも簡潔に「No」だったらなおよかったのになーと思いました。猿が初めて発した言葉「No」。中盤のあのシーンは素晴らしいカタルシスだし、クライマックスの金門橋でのバトルで、人間に直接手を下して殺そうとする他の猿をシーザーが制する台詞も「No」。最初は叛逆の宣言として、二度目は復讐の否定と倫理の表明として、そして最後のシーンで人類との決別を告げる言葉して、ただ「No」と発するというのが、美しいまとめかたになったのになーと。まあそれだとベタすぎですかね。

(評価:★3)

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