[コメント] ミッション:8ミニッツ(2011/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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映画を見る私たちは、どうして虚構にすぎない作中人物たちの冒険や恋愛に対して、彼らといっしょになって手に汗を握り合い、涙をともにすることができるのだろうか。彼らの正体がたかだか二時間ばかり持続するだけのスクリーン上の影の揺らめきであるなどということは、年端の行かぬ児童でも弁えているはずだ。だが、内に抱えた「しかし、それでも、本当にただそれだけだろうか」という愚かしい煮え切れなさこそがいまだに映画ファンの足を劇場に運ばせつづけている。存在するはずのない「スクリーンの向こう側に広がる世界」を描こうとする『ミッション:8ミニッツ』にとって「ソース・コード」やら「量子力学」やらは、当世風の、あるいはSFというジャンルにとりあえず面目を施すためだけのエクスキューズにすぎない。この映画の感情にとって親しいのは、『攻殻機動隊』でもなければ『マトリックス』でもなく、むろん『イグジステンズ』や『トロン:レガシー』でさえなく、むしろ『カイロの紫のバラ』であり『カラー・オブ・ハート』だ。ミッションを成功させて迎えた最後の転送後、ジェイク・ギレンホールは「平行世界」の中でハッピー・エンディングに向けて邁進する。その姿を見つめる私の瞳に浮かんだ涙はいったい何ゆえのものだろう。「八分間」を経過した瞬間に静止する世界、そのあまりに複雑な多幸感はいったいどのように云い表せばよいだろう。
さて、ギレンホールはどうして一回につき八分間、積算してもおそらく一時間程度しかともに過ごしていないミシェル・モナハンと「生きる」ことを決断したのか。映画としてその決断を正当化しているのは、云うまでもなく彼女の「顔」である。その混じり気のない笑顔の美しさはまるで『THIS IS IT』のマイケル・ジャクソンのようだ。ヴェラ・ファーミガもすばらしい。自らの顔面が感情を表現する器官として働くことを禁じ、それでも隠しきれない人格が微かな震えとして表情筋に露呈している。その繊細さはあたかもカティ・オウティネンのようだ。
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