[コメント] コンテイジョン(2011/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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映画には撮れるものと撮れないものがあるという最も基本的なことを、ここでのソダバーグは忘れていなかったらしい。というのはつまり、題名もすでに示している通り、『コンテイジョン』のウイルスの感染経路はもっぱら「接触」であるということだ。飛沫感染や空気感染をカメラは撮り収めることができない。だからこの映画はそれらの感染経路をほとんど問題にしない。一方で、後にマリオン・コティヤールがヴィデオ映像によって視認し、グウィネス・パルトロウのデジカメにも画像が残されていたように、身体的接触は「撮れる」。接触が撮れるからこそ、接触を禁じられた人々の「接触の欠如」を「描く」ことができる。ゆえにローレンス・フィッシュバーンとホークスの息子の「握手」、さらにはジャコビー=ヘロンと恋人の「ふたりだけのプロム」(!)という、好ましく通俗的に感動的なシーンさえ導き出されることになるだろう。そして、接触/非-接触とは二者間の「距離」の一様態であり、距離とは「関係」を決定づけるファクタである。『コンテイジョン』は、したがって、「映画」にとってきわめて伝統的な方法論で人間関係を見つめた作品だと云うこともできる。
また、ウイルスの感染から発症までを一日程度、発症から絶命までをさらに一日から二日程度と比較的短期間に定めていることも、ソダバーグがここで何を語るべきかに自覚的であったことを示している。仮に潜伏期間を一〇日間、そこから死に至るまでを二週間としたならば、たとえば発症者ではないマット・デイモンらにも生まれるだろう潜伏期間中の葛藤や疑心暗鬼(「俺も遠からず発症するのではないか?」)を無視することはできなくなるし、発症者についても、死が引き延ばされたことによる病苦を描く必要に迫られるだろう。むろんそれらを描いて悪いという法はないが、物語の停滞と焦点の拡散は避けられない。この映画の命はむしろ速度であると見定めて、不用意に各キャラクタに深入りしなかったソダバーグは正しい。
ソダバーグの撮影が単純にフィルムライクを志向するのではなく、ディジタル特有の画調を活かしながら映画らしい充実を目指していることもいよいよはっきりしてきた。好みの作家ではないからと云って、視界から排斥することも許されない存在へと膨れ上がってきたようだ。
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