[コメント] TIME タイム(2011/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
その日暮らしの労働者が文字通り一日分の寿命しか持たないことと、「労働者の生存を維持するのに必要な最低限の賃金」のみしか与えない資本の論理が同一線上に並ぶ。コンセプトが見え見えであり、その骨組みを豊かにする肉付けも大して為されていない。
寿命が貨幣であるという特異な設定を活かすことよりも、命の管理という『ガタカ』的テーマに経済格差問題を取り込んだ寓意性が前面に出てしまい、結果、『Bonnie and Clyde』でパティ・ハーストな犯罪物という凡庸さもまた前面に出てしまうことに。途中から、SF映画を観ているのだという印象が急速に薄らいでいくのも、そのためだ。
アクション映画、というか映画におけるアクションとしての疾走は、「あと○分で時限装置が稼動する!」とか「この思いを早く伝えたい!」といった緊急性、時間の圧縮によって情動をも凝縮しようとする仕掛けであるわけだけど、この作品における疾走は、その人物の生命、つまり存在そのものが失われるという究極の条件を与えられている。
今いる場所からどこかへ向かう疾走(その向かう先というフレーム外へと開かれた構造)に対し、二人の人物が互いを求めて走り寄るアクションは、互いが互いの目的地であるということ、つまりは同一のカットに収まることを目指すアクションであり、故に強度にメロドラマ的なアクションと呼べる。『TIME タイム』において、「離れた場所から互いに駆け寄る男女」という映画的クリシェは、一秒一秒、命が削られていくという条件によって、かつてない種類の感情を掻き立てることになる(特に、「25歳」で停止している母とのそれの倒錯性)。
だが、この面白い設定の割にはどうにも情動を搔き立てられないのは、寿命を貨幣として生きる人々の生活感というものが丁寧に描かれることなく、設定紹介のレベルにとどまっているせいだ。だから、「人物がやたら走る」という映画的なお約束に、『TIME タイム』の舞台設定という更なる虚構を重ねるという、「嘘に嘘を重ねる」形になってしまっている。
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