[コメント] 苦役列車(2012/日)
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この森山未來のキャラクタを特徴づける行動が「待つ」ことであるのは、彼が高良健吾の退勤や前田敦子の帰宅を待つ(待ち伏せる)回数の多さが端的に物語っている。さらに彼が待つ相手はメインキャストに留まらない。過去に関係を持っていた女で、覗き部屋で偶然の再会を果たしたに過ぎない伊藤麻実子のような馬鈴薯に対してさえも「まぐわらしてくれよ」と懇願するために、森山は彼女が勤務を終えるのを待つ。
それでは「待つ」とはいったい何なのだろうか。ひとまずここでは、他者より「先行」し、何かを「期待」することだと云えそうだ。逆に云えば、先行も期待もしない者は、待た/てないはずだ。
森山の「先行者」としての造型は未成年にもかかわらず夥しい頻度を誇る「飲酒」「喫煙」によっても図られているし、そもそもミドルティーン時分にはもう「家庭」「学校」の保護を失い、労働者として社会に投げ出されていたというバックグラウンドによって語られている。あるいは、他者との親交を深める手順を知らずに「友達になってよいということはこれすなわち、やらせてくれるということに相違ない」と一人合点してしまうのも彼の先行者としての資質ゆえだろう。
そして、何もかもを諦めたような表情を繕い、「努力したって、頑張ったって、どうにもならねぇや」とか何とか嘯いてさえいるものの、しかし森山以上に何事かを期待するキャラクタはこの映画に存在しない。彼は誰よりも強大な「期待者」でもある。
これらを最も鋭く、かつ感動的に描いたのは森山・高良・前田が海ではしゃぐシーンだろう。ここで最も初めに海水に浸かり、残る二者が自らと同じように衣服を脱ぎ捨てて海に入ってくるのを待っていたのは、云うまでもなく森山である。そして映画も終盤を迎えた「三年後」のシーン、高良と前田が突如として現れ、先のシーンを反復しようとするかに見える。しかし、実際の事態は反復というよりも、むしろ正反対だ。つまり、ここでは浜辺に立ち尽くす森山の両脇をすり抜け、先に海に浸かった高良と前田こそが森山を待つ。もちろんこの高良と前田は幻影に過ぎないのだが、ゆえに森山は己の期待とはつまるところ何だったのかを自白しているとも云える。多分に通俗的すぎる云い方かもしれないが、すなわちそれは、誰かに何かを「期待される」ことだ。
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