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[コメント] 桐島、部活やめるってよ(2012/日)

たかが部活、されど部活。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







将来たいてい会社勤めのような「ふつうの職業」になることが決まっているわれわれの人生において、部活っていうのはひとつの側面として、将来自分が成りたい大人(職業)、たとえば、スポーツ選手、映画監督、音楽家・・・という特殊な職業の体験版であるととらえると、それを辞めるということは、自分の人生に見切りをつける最初の行為なのかも。

桐島くんという一人の「部活成功者」が部活を辞めるっていう、別に学校を辞めるとか、これまでの日常生活を辞めるわけではない。背景に大人の事情があったのだとしても、部活(程度)の問題は、自分に委ねられる。自分の将来の可能性のひとつを捨て、現実をみすえることへの自分への振り返りから動揺を隠さない者、動揺に動揺する者、それを隠してこれまでどおり振る舞う者、自分で決めるっていうことだからこそ、こういう波紋が起きるっていう着想が面白い。

桐島という友人に寄りかかり現実逃避していたヒロキの不安をマックスとして、さまざまな部「活」をしていた登場人物たちの間に起こる価値観や視線の転倒が、桐島めがけて屋上にそれぞれの思惑で駆け出す運動や、それに続く妄想映画のシーンで味わえる。現在の学生ではない自分には正しく彼らの気持ちなどわかりようもないが、今まで信じていた世の中がささいなことでひっくり返るような、そんな一例としてこの作品は面白かった。

本当のところ、ヒロキからすれば「お前らはみんな自分を持っているじゃないか」と泣きたくなるような気持ちを、当の「お前ら」もみんな抱えたうえで、そう「振る舞っている」だけで(つまり今時の若者が言う、就活とか、婚活とか、恋活だとかいう「活」という物言いは、自然体と別の「振る舞い」であるってことで、彼らの世代は自分達の世代より「振る舞う」ことに充分自覚的だ)、実は皆の多くは「振る舞い」の裏で、ヒロキと同じように泣きべそをかいたりもしているんだろう。本作はもう少し個々のそれを感じさせていってもよかったようにも思うが、ヒロキ一人に託すことでの結局は個々の問題という、この収束のさせ方で良かったように思う。

蛇足。もう大人目線でしか物が見えない自分には、本作や『告白』で生々しい「自分たち」を演じる若い役者たちが演技をしているのか、素なのか、素だったらやはりその若い集団のヒリヒリしたありようが正直理解できない恐怖の存在と感じてしまうのだが、橋本愛や東出昌大や落合モトキが朝ドラの「あまちゃん」で別の人格を演じていることで、一応演技としてやっているんだとわかり、すごくホッとしてしまうのだ。彼らは演じる彼らをどう見てるのだろう?

もうひとつ蛇足。ヒロキや桐島の彼女のような帰宅部の女子の「部活」に対する蔑視や、一般女子の「好きなこと」に対する距離の置き方って「あたしと部活のどっちが大事なの」とか「部活やってて、それであなたはこれからどうしたいわけ?」って言ってないけど言ってるわけだ。もし自分の彼女にそれをせまられたら、平静にカメラを回し続け、黙々とバットを振り続けられるだろうか? 外の社会につながらないフィクショナルな部活と、セックス・妊娠と外の社会に充分つながりうるリアリティ。女子はいつだって現実の回し者だって気がする。本作に起こる波紋をもう一度振り返ってみると、女子の存在こそが緊張の元になっているではないか。男子にとって、時に「夢<女子」であり、女子=現実という恐怖。女子を克服できる男子はいますか?(いません。)女子の怖さ。監督がカメラでとらえていた光景はそこなんじゃないだろうか?・・・って全然違う? でも、DVDの特典のスピンオフドラマで監督がとりあげたヒロインが、唯一の「部活少女」実果であることが興味深い。残念ながらそれは未見なのですが、彼女のドラマを作りたいという監督と、彼女のドラマならみたいと思うということが、かなり支持が高いのではないかと思う。彼女は「現実(あたし≒セックス)」と「夢(部活)」のどちらかを選べと強要してこない、もっとも「わかってくれそうな」女子だからだろう。

・・・女子の意見も聞いてみたいものです。

(評価:★5)

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