[コメント] 桐島、部活やめるってよ(2012/日)
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それにしても八ミリ映画とは。巷の自主映画事情は知らねども、今なお八ミリで映画を撮り続けている高校生なんて世界的に見ても絶滅危惧種ではないのか。その点で彼らは校内の主流派から浮いた(沈んだ)存在、などとおざなりに規定して済まされる集団ではない。どこか殉教者めいた尊い異常者たちと云っても決して大袈裟ではなく、彼らにはまだその自覚が薄いらしい。ともあれ、彼ら映画部を含む全作中人物が見事に描き分けられているあたりは大した仕事だ。演技・演出・脚本の各領域はむろんのこと、衣裳や持ち道具に至るまで念入りに人物を造り上げている。
さて、これは確かにある種の力を持った映画だ。ある種の力とは、たとえば、ここに描かれている高校生活と自らのそれを観客に引き較べさせる吸引力でもあるだろう(「私の高校生活はまったく彼らのようであった」でも「俺の場合はまるで異なっていた」でも「引き較べ」であることには相違ない)。強いて作中人物の中から私の面影を探せば、長髪パーマの落合モトキが当てはまるだろうか。私も陰では橋本愛さんとステディな関係であった、ということではなく、何事も「冗談」で処理しようという彼の性向に昔日の私と重なるものがある。このように何事も冗談(笑い)で処理しようとする人々は世間にも一定数いるもので、彼らの心性を私自身の経験も踏まえて分析すれば以下のごとくなる。
(1) サーヴィス精神 (2) 自己顕示欲(「俺を、この面白い俺を見ろ」) (3) 嘘と真の境界の曖昧化 (3a) 処世術 (3b) 自尊心の保護
劇中の落合には(3)が最もよく該当するようだ。私の高等学校在籍時分と云えば(2)が極度に肥大した結果として「全発言が笑いを呼ばないと気が済まない」という一種の病気のような状態に陥っていた。しかし残念ながら全発言を笑うに価する言葉で埋め尽くせる発想力を持ち合わせてはいなかったので、いきおい努力は技術の洗練へと向けられた。声音・間(ま)・抑揚・緩急といった発話における種々の要素を按配して「普通のことをさも面白いこと云った風に聞かせる技術」である。というのも嘘とまでは云わずとも美化が紛れていて、公正を期して云い直せば「普通のことを云っているだけにもかかわらず爆笑しなければいけないような威圧的な空気雰囲気を辺り一帯に漲らせる技術」であった。したがって当時の私の周囲には常に愛想爆笑が絶えなかった。虚しい日々……。一〇ヶ年をかけて現在ではこの病も完治したとは云え、その間に被った経済的また精神的損失は計り知れず、失われた一〇年とはまたうまいことを云った人もいたものである。
話題を作品に戻すと、以上のような性質を確認できる落合に注目した場合でも、クライマックスと呼ぶにふさわしいのは映画部と桐島探し隊が衝突する屋上シーンだ。一触即発のムードが漂う中、ひとり落合は半笑いを浮かべたまま(つまり冗談的に)「そうカッカしなすんなって」か何か云って神木隆之介を宥めようとする(確かに、これは私の役だ)。それを邪険に返されるとさすがの落合も「あぁん?」と声を荒げるのだが、この「声を荒げる」が「桐島不在」の事件性を象徴している。声を荒げることは事件だ。私には高校三年間を通じて声を荒げた記憶がない。これは取り立てて私が菩薩だったからではなく、社会ではほとんど誰も彼も声を荒げることのないよう苦心惨憺しているのではないか(3aも参照)。食い扶持を懸けたビジネスの場ではいささか趣きも異なるかもしれないが、学校ではとりわけそうである。私の観測範囲内では体育会系の部活動においても事情はそう変わらない。事実、この映画にあっても野球部キャプテン高橋周平は幽霊部員東出昌大に対して至って寛容で、ゴリラ鈴木伸之が怒声を上げれば隣のバドミントン部(清水くるみさん)を含め体育館は凍りついてしまう。
何やら当たり前のことばかり長々と書き連ねてしまったけれども、そろそろ結びとしたい。落合モトキのような脇の人物や「声を荒げる」といった一見すると瑣末な事柄に着目しても、それが「全体」と切り離せない関係としてあるように『桐島、部活やめるってよ』は作り込まれている。それは一個の完結した世界だ。そして、それは同時に私たちの世界と繋がっている。
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