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[コメント] アウトレイジ ビヨンド(2012/日)

アウトレイジ ビヨンド』は続篇である。『アウトレイジ』の続篇である。では「続篇」とは何だろうか。ひとまず、続篇は正篇にとって子のようなものだ、と云ってみよう。子は親と独立した個体であり、また親と無縁に生きることもできるが、親の存在なくして子が発生することは生物学的に不可能である。
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**ネタバレ注意**
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つまり、私たちは『アウトレイジ』を見ずとも、さらにはその存在すら知らなくとも『アウトレイジ ビヨンド』を見ることができる。しかし、『アウトレイジ ビヨンド』は『アウトレイジ』なくしては撮りえない映画だ。続篇『アウトレイジ ビヨンド』は正篇『アウトレイジ』と因果の鎖で結ばれている。続篇の在り方として純粋である。

何を大層ぶって当たり前のことばかり云ってるんだと訝る人もいるかもしらない。しかしながら、一年に一本の監督作を持てば多作家とされ、(米国を中心に)もっぱら興行上の要請でシリーズ化とリメイクが奨励される現在の映画界にあって、そのフィルモグラフィにすでに一五作の長篇商業映画を並べる映画作家が初めて続篇を手掛けたことの意義を軽く見るべきではないだろう。

また、実際、上に述べたことが「当たり前のこと」であるというのは本当だろうか。たとえば『エクスペンダブルズ2』はたかだかブルース・ウィリス絡みのシーンにおけるいくつかの台詞によってのみ『エクスペンダブルズ』との時系列上の先後関係を指し示しているに過ぎない。要するに、『エクスペンダブルズ』が『エクスペンダブルズ2』に先立って存在しなければならない積極的な理由は見当たらない。『エクスペンダブルズ』と『エクスペンダブルズ2』は相互に置換可能な表現物であり、ここにあって親-子のアナロジーは不適当である(云うまでもなく、これは映画の質の優劣を問うものではない)。

さて、『アウトレイジ ビヨンド』において三浦友和加瀬亮が殺害されるという「果」に至るのは、彼らが『アウトレイジ』で働いた裏切りという「因」のためだ。またビートたけしはヤクザの抗争に巻き込まれるのを避けようとする存在として現れるが、つまるところそれは、彼が因果の鎖からの解放を望んでいることを意味している。しかしビートはそれに失敗する。中野英雄や、その舎弟であるところの新井浩文桐谷健太との関係づけを受け容れざるをえなかったためであるが、そもそも『アウトレイジ』が北野映画の常連俳優を念入りに排除して撮られていたのに対して、ビートを娑婆に迎え入れるのが白竜であったという点にこの映画の因果性は色濃く浮き出ている。

むろん因果の鎖とは「普通の」「物語」であり、さらには「人生」でもあるだろう。「暴力」が見世物性において特化していた前作が、それによって因果関係を後景に退けていたことと比べれば、確かに『アウトレイジ ビヨンド』はより普通の物語に近づいたとも云える。しかし、その主人公は因果の鎖から解き放たれること=脱-物語こそを望んでおり、それが果たされずに「物語に絡め取られてゆく」という物語が展開される。云うなれば『アウトレイジ ビヨンド』は普通の物語に近づくことによって、むしろ物語批評の地平に歩みを進めている。

ところで、映画にとって「よいカット」とは何だろうか。万人が納得しうる必要十分な定義を行うことはおそらく不可能だが、とりあえず「視覚的に明晰な表現でありながら、複雑・曖昧・多義的な意味を持つ/感情を観客に惹き起こす」カットをそう呼んでみることはできるだろう。すなわち『アウトレイジ ビヨンド』のラストカットである。「ビートが小日向文世を殺害する」という事態について、誰にとっても明晰なカットだ。だが、それは、ビートを物語に連れ込み、山王会と花菱会を関係づけた張本人である小日向を殺害することで、ビートが因果の鎖を断ち切るという念願を果たしたことを意味するのだろうか。それともより強く因果の鎖に縛られることをついに観念し、自らポイント・オブ・ノー・リターンを踏み越えてみせる振舞いだったのか。北野武は実に雄弁な仕方で無回答を貫いている。

(評価:★4)

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